自由 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
希望を手放す


手放すという話をいたしましたら
ある方から、願望はどうだろうかと質問を受けました。

願望にはいろいろなものがあります。ある種の願望は他のものよりも強いですね。
でも、願望はどのようなタイプであれ、しがみついているよりも手放す方がずっと簡単です。

ところがマインドがそれをひっくり返し、
手放すのは難しいと、
まるで催眠術のように繰り返します。

実際は、しがみついているほうが困難です。
そして多大な労力が必要ですし、苦しみを産みだします。

なぜなら、
物語を覚えていなければなりませんし、
それがどのように展開するべきかを考えなければなりません。
どうあるべきだったか、
誰のせいでそうなったのかを考え、
そして最終的に、
ここに悪魔が入り込んでくる隙があるのですが、
状況が変わるようにと。希望を抱かなければなりません。

(笑い)

そのようなことを人類は伝承してきています。

実際に重さがある訳ではありませんが、
大変重い体験です。

そこで、質問者と私は希望について検証をしました。

私の見方では、
希望は子供たちには必要不可欠です。
希望は未来と関わっていますから、
神経系統が未発達である子供を心地よくしてやる為に、希望が必要です。

しかし、真に成熟をした者には、希望は悪魔のような代物です。
なぜなら希望は、執着へと引きずり込むからです。
希望は私たちを ”今ここ” から乖離させます。

子供のような人たちには希望が必要でしょう。(笑い)
今ここにじっと止まる、という恐れは、
何よりも深い絶望かも知れません。

でも、いかがでしょう。
生きる頼みの綱としての希望を進んで手放し、
無希望という絶望の内でじっと止まってみる。
人間であるという絶望の内に、
人間がしてきたあれこれへの絶望の内に、
あなたがしてきたあれこれへの絶望の内に、じっと動かずに止まるとどうでしょう。

私たちは、自分たちの住処に一体何をしてきたでしょう。
お互いの身に、何をしてきたでしょう。
子供たちに何をしてきたでしょう。
他人事ではありません。
あなたは何をしてきたでしょうか?
今も継続中ですね。
変化が起きるよう望み、
相手がやっていることを止めさせたいと望んでいます。

私が受けた質問は、
恋人との関係が変わってほしいという希望でした。
よくある話です。

希望は普通、誰かとの関係性の中に起こります。
あなたと他。
現在の恋人でなくても、未来の恋人かもしれません。
または相手は世界かもしれませんし、神かもしれません。
共通しているのは、あなたと何物かとの関係性です。

私たちは関係の中に自分の理想を重ね合わせ、
その結果、空虚感を体験します。
そしてそれを自分の成長の為に利用するかわりに、
もっと違ったふうならよかったのに。
こうでなければいいのに。
なんとか理想に近づけたい。
今度こそ状況を変えたい。
彼らを変えたい。
私を変えたい。と物語を紡ぎます。

私は皆様に、
たった今この瞬間に、そのようなすべてを諦めてはいかがかと提案します。
希望も、無希望も、両方とも、
すべて諦めてはいかがでしょうか。

どっちみち、実際に存在している訳ではないのです。
愚か者によって語られる作り話です。

(会場笑い)

そのとうり。
自分が愚か者だと気づくのは、
成熟がかすかに輝く一瞬です。

(会場爆笑)

「僕を見て見て! 強いだろう。すごいだろう。」
これは子供です。

ペッシャンコになり、
「私は何ひとつコントロールできないんだ。
何も知らない。
知る由もない。
誰に対しても、
どのような状況に対しても、
世界に対しても、
どんなときにも、何ひとつ自分の思うままになんてできないんだ。」
これが成熟です。

そこに、真の解放があります。

そして解放の二次的な作用として、責任があらわれます。
この責任は、
私たちが思い込んできたようなたぐいの責任とは異なります。
変化させる必要など何もない、光から、ハートから、やってきます。

変化への願望はあるかもしれません。
でも自分自身の充足の為に、私たちが願望を満たす必要などまったくありません。

人類の歴史の中で、たくさん見聞きしています。
変化を起こすこと、あるいは起こさないことに対し、全力を尽くさない人間は責任感の無い人間だと、私たちは思い込んでいます。

けれども、
究極的に、結果を自分の思い通りに操ることなどできません。
あなたは、あなたの生命のエネルギーを幻に注いできたのです。

もし実際に、あなたが思った通りにすべての事が運んだとしたら、皆にとっては大変悲惨です。

(会場爆笑)

例えば、バイオ ディーゼル(植物由来燃料)でしたでしょうか。画期的に登場しましたが、後に食料危機を招くかもしれないとわかりました。

私たちは、何が究極的にどのような結果を招くかなど、知る由もないのです。

ええ、もちろん知っているつもりでしょう。
これが変われば、彼らが変わり、
彼らが変われば、あれが変わり、
そうすれば、
私の状況が変わり、
そしてOKになるはずだ、と。

でも、そうはならないのです。

何世代にも渡って、そういうことをやってきました。

最近、ナポレオンを論じる本を読みました。
トルストイによるナポレオン語録の翻訳文です。
ナポレオンがセントヘレナに送られたとき、彼はメモを残していました。ナポレオンは、自分の行いがヨーロッパに光をもたらすと信じていました。彼自身がそう綴っていました。
皆の為に最高の事をしていると信じて疑ってはいませんでした。
しかしトルストイやシャールトンの見解では、ナポレオンはならず者でしかありません。
なぜこれほど異なった見解が同時に存在し得るのでしょう。

まるで、あなたのマインドのようですね。
あなたのマインドの一部は、あなたが正しいことをしようとしている言っています。
あなたはすばらしい善人であり、人類や地球を救う為に、与えられた役割をただ単に全うしようとしているのだと。

しかし、マインドの他の部分は、
あなたはずるく、うそつきで、罪深く、自分勝手で、誰よりも自分こそが大事だと言っています。

さあ、こんなに異なったマインドの対立を、どうやって調整したら良いのでしょう。

両方とも、手放すのです。
即座に、
すべての評価、秤を捨てるのです。

それが難しいのはただ単に、
ある定義がもたらす特定の結果に
あなたが執着しているからです。

そうではありませんか?
おわかりでしょう。

何故私がそんなことを知っているのかとおっしゃるのですか?
サイキックな能力など必要ありませんよ。
自分自身のマインドの構造を検証すればわかります。

そして、進んで手放すのは一瞬でできます。
静寂の中の休息です。
あらゆるすべてが現れ、消えていく たった今という ”空” の中に。

それは命のない静寂ではありません。
意識に溢れた静寂です。
今ここに ”在る” 意識そのものです。
形態の制限や制約がなく、
価値観だとか、評価から全く自由です。
真に自由で、愛そのものです。

私たちの存在の意味がそこにあります。
あらゆる人にとってそうであるかどうかはわかりませんが、
あなたにとってはそうでしょう。

なぜなら、何処かで何かを読んだとか、夜中にピンときたとか、
見たとか聞いたとか、
あるいは何の理由も無く唐突にかもしれませんが、
少なくとも一度は、何かがあなたの心に触れ、
そうだ!とあなたはうなずいたのです。

良くも悪しくも、”それ” があなたに触れたのです。
そう。良いのか悪いのか、価値付けるのも止めましょう。
触れられたのなら、それがあなたの存在の意味なのです。

あなたを不明瞭にし、
あたかも ”それ” から乖離させているかのように見えるすべての事柄を、ただ一瞬手放し、全面的に明け渡すなら、
あなたはやがて生きている意味そのものとなるでしょう。

そうすれば、
あなたが生きている存在の意味は、宇宙全体に響くでしょう。
あなたには知る由もなく、あなたは世界の人々に影響を与えるでしょう。

あなたへのサポートが、どんなふうにやって来るのかは神秘です。
実際的なサポートとして誰かからやってくるかもしれません。
またはあなたの人生のチャレンジという形でやってくるのかもしれません。どのような形でやってくるのかは誰にもわかりません

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選択するかどうかを決めるのは あなたです

私たちは様々なやり方で苦しみます。

タイプの異なる苦しみがいろいろありますが、
私たちが体験している苦しみの中心にある思考を見てみると、

過去がどうあるべきであったか、
今がどんなふうであるべきか、
将来はどんなふうになるべきか、
というように、”であるべき” があります。

それが悪いという訳ではありません。
生存を維持していく為の、単なる脳の働きです。

ところが私たちは、このような脳のコメントを
あたかもそれが現実であると捉えます。

毎日の生活に痛みが伴うのは当然ですが、
痛みは苦しみである、と判断し、

痛みを感じるべきではない。
幸せを感じるべきだ。

私はもっとちゃんと扱われるべきだ。
明日は幸せでないかもしれない。
明日もまだ痛みがあるかもしれない。
というように。

そしてこれらすべては、あなたの ”解釈” です。

解釈にも目的があるでしょう。
医者に行くべきだと解釈すれば、あなたは医者へ行くでしょうし、
保護されるべきだと解釈すれば、保護を求めるでしょう。
食べ物が必要だと解釈すれば、食べ物を求めるでしょう。

ところが私たちは全く均衡を失っていて、
どれだけ多くの医者にかかろうが、
どれほど多くの食べ物があろうが、
十分に保護されていようが、
コメントに振り回され走り続けています。

ひょっとすると、素晴らしい祝福や、完璧さを体験する瞬間があるかもしれないのに、そのような瞬間を

「それはそうだけどねえ」
「ほ〜らやっぱりね」
「どうせ続かないんだから」
「こんな幸運はきっと、いつか終わるんだ。」

と言いながら過ごします。

確かにそうでしょう。
いいことは続かないでしょう。

やっぱり、どうせ、とあなたがつぶやかなくても、
どうせ続かないのです。(会場笑い)

幸福や至福、
祝福や、完璧さや、愛というような ”体験” は、
変化し、
次の体験へと移り変わっていきます。

そして、
あなたはこう言うのです。

「ほらね、所詮これが現実なんだ」
「わかってるよ」
「元にもどっただけだ」 
「きっとやりかたが間違っていたんだ」
「何故自分だけこんなことが起きるんだろう」
「どうしたら直せるんだろう」と。。。

ある種の文化の一部やスピリチャルな教えの中で、
私たちは、苦しみのない可能性について耳にしたことがあります。
それを、私たちは、
痛みを感じない可能性というふうに、解釈します。

皆様に申し上げますが、
これは大変大きな間違いです。

私たちが、感じる身体を持っている以上、
当然痛みの体験があります。

痛みそのものは敵ではありません。

敵は何かというと、
私たちが、痛みを問題化し、
生を破壊するのにそれを利用していることです。

痛みがあろうが、
苦しみがあろうが、
望むような現実が、実現しようがしまいがかかわりなく、
”本質的な解放” が存在しているのに、
それに注目をするかわりに、
私たちが、痛みを苦しみとして問題視していることが敵なのです。
 
私たちは幼い頃、教会等で、
天国だとか、それに似た考えを学びました。
そして痛みの無い世界を想像しました。
そのような想像こそが、私たちを苦しみに追い込んでいます。

そして痛みを体験するたびに、

たとえばそれが、
つま先をぶつけたとか、
誰かがあなたの方を見ていない、というような、
ささいな痛みであったとしても、
ちょっとした否定的なエネルギーや不注意だとは思わずに、
重大問題として取り扱います。

私たちのマインドにとって、”自分” は非常に重要です。
それは幼少の頃にはじまり、やがて雪玉が転がるようにどんどん大きくなり、
11歳、12歳頃には、もう既に大騒ぎをするようになるのです。

そしてこれを意識的に見てみようとしない限り、
私たちはそのまま人生を終えます。
苦しみの人生と共に死んでいきます。

確かに時々、美や完璧さや、愛や、すばらしい体験があったのかもしれませんが、生は、苦しみを中心に回転しているのです。

ですから、
そんなふうに人生を過ごしてしまわないように、
私は皆様をお誘いしたいのです。

貴重なあなたの人生、
あなたという特別でユニークな形は、非常に短く、
いずれ必ず期限切れになってしまいます。
あなたという形はやがて終わります。

ある意味でそれは、全くひどい話ですが、
異なった見地から言うならば、素晴らしいのです。

なぜなら、それは私たちに、
『無駄にする時間はないよ!』と、知らせてくれているからです。

ああいうことが起きるべきだった、こういうことが起きるべきだったと、
べきだ、べきでない、と唱えながら過ごしているのは、
ユニークな今この瞬間を、そして分子や原子や遺伝子の表現というような、ユニークな形状を無駄にしていることになります。

あっ と気づいたときには終わりなのです。

パパジに出会ったとき、
私は様々なメソッドを試し、自分の苦しみを終わらせようとしていました。
カリフォルニアの素敵な暮らしには、
愛する人がいて、
満足感やチャレンジのある、やりがいのある仕事もしていました。
しかし私は、心の内側の自分でも気づかないような深いところに、
苦悩があるのを認識していました。

何も理由はありませんでした。

皆さんも、世界中の人々とご自分を比べてごらんになれば、
苦悩する理由などないと、おわかりでしょう。

でも、理由はいらないのです。
私たちには、苦悩する才能があるのです。
苦悩の理由を、何処からでも見つけられる力ですね。(笑い)

ひょっとすると、
「もう十分苦しんでいるから、神様どうぞ私には悪いことを起こさないでください。」
というような、お札のようなものかもしれません。

私は、
「誰かが現れて私を悟らせ、痛みから解放してくれないか」と、
自分が思っていることに気づいていました。
そうすればあらゆる痛み、
動物としての痛みや、パワーを欲しがる人類としての痛みから解放されると思っていました。

そのような折に、パパジに出会いました。
そして
「君の苦悩を、あれこれ話し続けるのを止めなさい」と言われました。
出会って間もなくのことでしたから、
彼に、それほどたくさんの私の苦悩の話をしたわけではありませんでした。

ですからパパジが、
私が自分の内側で苦悩をつぶやいているのも、止めるように、
と言っているのは、明確でした。

会場から起きた一声    ああ、なるほどね!      

ガンガジ      (思わず笑いながら)

そうなのよ。そう!

おわかりですね。
あの会話です。
あなたが内側で、一人だけでやっている会話です。(笑い)
秘密の会話ですね。

(会場笑い)

そして私は、自分の苦悩をある種の台座の上に鎮座させ、悟りの推進力にしていたことに気づきました。
ぎょっとしました。
自分の苦悩故に、真の幸福を探していたのですから。

つまり私は、
”意識” そのもの、
自由を発見したいという自然な欲求、を信頼せずに、
苦悩という推進力を崇拝していたのです。

自分でもまったく気づかない、錯綜したシナリオを描いていました。

私の中では延々とコメントが続いていました。それはあたかも神が語っているようでした。
神は、私などとるに足りない者だと言っているのでした。

たまに気が大きくなり、自分が神に選ばれた存在だと思えることもありました。
そのような瞬間は、自分が重要だと思え、とても特別でよい気分でした。

そして、私が考えたのは、
誰かに悟らせてもらえたなら、
常にずっと、気分の良い特別な瞬間のままでいられるということでした。

今私は、パパジに言われた言葉を皆様にそっくりそのままお伝えします。

「そのような考えは、どちらをも手放しなさい。」

真の自由、真の解放は、
苦悩があろうがなかろうが、
関係がありません。

痛みがあろうがなかろうが、
全くかかわりありません。

”真” の、というのはそういう意味です。
どのような状況にも条件づけられないという意味です。

そして、真の解放は、もう既にいまここに在ります。
あなたの生の核心に在ります。

ところが、

『いつの日か ”それ” が現れて、自分が気に入らないすべてを払拭してくれるだろう』と、
時間とエネルギーと大変に貴重なあなたの注意を、そのような希望に向けて過ごしておられるなら、
あなたは、あなたの生を捨てています。

実際は大変に簡単なのです。

そうしよう! という意志さえ必要ありません。

でも、簡単ではあっても、偽りは通用しません。
嘘も、ふりも、通用しません。

必要なのは、あなたがあなた自身に向かって、どのようなことを語っているのかを発見する、本物の意志です。

あなたに関して、また、他の誰かに関して、
いま私の話をきいている皆様の場合は、私(ガンガジ)に対しても、
あなたがあなたの中でどのようなコメントをしているかを、たった今発見してください。

そして、止めるのです
心の内外で会話をするのを止めるのです。
会話に触れずに立ち去るのです。
一秒もかかりません。
一秒もかかりませんが、瞬間的にあなたの人生は変わります。

その瞬間、
選択するかどうかを決めるのはあなただと、気づくでしょう。
気づくまでは、選択することすらできません。
何も気づかず自動的に生きています。

私は、
あなたが気づき、解放を選べるように援助する為にここにいます。

誰かから与えてもらう解放ではありません。
あなたがこれまで感じてきた痛みや、
今感じているかもしれない痛みと対極にある解放でもありません。

真の解放、真の自由です。

あなたの身体がどのような状況にあろうとも、
あなたにどのようなことが起きていようが、
愛する人との関係や、健康、病気、世の中の状況がどうあろうとも、
たとえあなたが、刑務所の中にいようが、
病院のベッドにくくりつけられ寝たきりであろうが、

あなたがどうであろうと関わり無く、
今この瞬間に、
何も変えずに、
あるがままのあなたでいながらにして、
本来の自分自身に気づく能力が、あなたの中にあります。

宗教には危険が存在します。
私たちの気持ちを和らげ、真理を示唆しますが、概念になると危険です。
マインドが罠にはまります。
ですから私が話していることがなんであれ、宗教ではないと気づいてください。
つまり私は教義をお話ししているのではありません。

マインドがあるとか、無だとか、
自分があるとか、無我だとか、
そのようなことを話しているのでもありません。
もっと、ずっと見近です。

私が使用している言葉は、それがどのような表現であれ、十分ではありません。私たちには言葉を捕らえて、肯定するか否定するかを決める傾向がありますが、そうではなく、どうかご自分で調べてごらんになってください。

私がこれまで皆様と行ってきた対話は、それがどのようなものであれ、
示唆している先はみな同じです。














 









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自由になりたい


質問者   最近の私は、以前よりも心が開いていると感じます。
その分、他の人に左右されやすく、いろいろなエネルギーを吸収してしまいます。

ガンガジ  ではあなたを隔離しなければなりませんね。

(全員爆笑)

何を望んでおられるのでしょうか?

質問者   自分で自分を非難したり、自分の価値を決めつけるのをやめて、自由な私になりたいです。

ガンガジ  あら、それは不毛な夢です。
だって、『私』そのものが、そもそも他人や自分の決めつけの産物ですから。

質問者   う〜ん、、、

ガンガジ  決めつけの一体何が問題を引き起こすのですか?  

質問者   古傷です。
人に一方的に決めつけられたり裁かれたりすると、古い傷が痛むんです。

ガンガジ  古傷が問題ではないとしたらどうでしょうか?
それから逃げたり隠れたり、どうにかしようとしなければね。

つまり、古傷をご自分で裁くのをやめてみたらどうなるでしょうか?

質問者   わかりません。

ガンガジ  そうです。
わからないというのは正しい答えなのですが、
即座にそうおっしゃらず、実際に調べてご覧になってはいかがでしょう。
何らかの可能性が開けるかも知れません。

古傷という言葉を口にすると、どのような感じが沸き起こってくるのですか?
あなたの身体のどのあたりにそれが感じられるのでしょう?

質問者  口に出してみたら少し軽くなりました。

ガンガジ そうですね。
古傷から逃げずに、今意識的にそれを迎え入れたからです。

それでは、もっとやってみましょうか?
『あなたは全然だめね!』と、
もし私が、あなたを一方的に決めつけ批判したら、あなたの中では一体どのような反応が起こりますか?

質問者   言い方が綺麗すぎて、批判された気がしません。

ガンガジ  まあ、、、
じゃあ、どんなふうな言い方をすれば、
あなたは非難されたとかんじるのかしら?

(会場爆笑)

それでは、ご自分で、
決めつけられたり裁かれたときの状況を思い出して、今ここでその状況を作り上げることはできますか?

質問者   (しばらく沈黙)

もし私がもっと表現力が豊かなら、いつも人に裁かれずにすむのかもしれません。

ガンガジ  人は常に人を裁き、一方的に決めつけます。
それが人間というものです。
本当ですよ。

私も、私に関してひどいことを言われたり書かれたりしています。
皆必ず、誰かにどこかで批判されているのです。(笑い)

質問者   そういう場合、どうやって自分を守るのですか?
防御するにはどうすればいいんでしょうか?

ガンガジ  もちろん傷つきますよ。
決めつけられれば誰だって傷つくのはあたりまえです。

人はもう生きているだけで傷つくんです。
何もかもが私たちを傷つけるんです。まあ常にというわけではないかもしれませんが。

誰かを愛すれば、
その人がいなくなってしまったら傷つきますし、
愛する人が傷つけば、自分もひどく傷つきます。

ですからね、
今問題にしているのは、傷そのものとあなたとの関係性なのです。
おわかりでしょうか?

あなたは、傷つくことをもいとわないという意志がおありでしょうか?
逃げたり、なんとかしたりせずに。

いかがですか?

質問者   。。。。

ええと、、、、
最近学んでいます。

ガンガジ  チャレンジですね。

質問者   ええ。そうです。
傷つかないように見越して逃げるのが得意なんです。

ガンガジ  だれでもそうです。
それはとても役に立つ方法です。
逃げるという選択ができるということを知っているのは良いことです。

でも、逃げるという選択しか知らないとなると、私たちは奴隷となります。
それしか知らなければ選択の余地がありませんからね。

ですから、
傷つくことをいとわずに、心を開いてごらんになるのはいかがでしょう。

傷は痛みを伴いますが、
痛みは人生の体験の一部です。
傷つくか、傷つかないかを指標にしていると、人生を十分に体験せずに生きてしまうことになるでしょう。

ああしなさいこうしなさいと、何らかの方法を説いているのではありません。
私はただ単にいざなっているのです。
あなたが先ほどチャレンジだとおっしゃったそのことに。

ご自分で体験しなければ、あなたご自身の発見とはならないからです。

質問者   。。。。。

ガンガジ  今何を体験されているのですか?

質問者   可能性っていうのか。。

ガンガジ  なるほど。
可能性ですね。

いいですね。
選択できるという意味ですね。

どれほど大きな可能性ですか?

質問者   無限大。

ガンガジ  それでは、あなたの古傷を、この可能性の中に誘ってみてはいかがでしょうか?
今ここだけの体験でもいいですから、やってごらんになれますか?

質問者   。。。

エネルギーを感じます。動いているような。
そして、心の空間がいくらか広がったようなかんじがします。

ガンガジ  そうですね。
封じ込めていないからですね。

古い傷さえも、命そのものなのです。

これが心を開くということです。

分類し、解析し、封じ込めるのはマインドのやりかたです。
そういうことが必要な場合もありますが、
このような自己調査の場合には邪魔になります。

質問者  (しばらく沈黙)

ガンガジ  先程あなたがおっしゃった、自由になる、とはどのような意味ですか?
具体的に話していただけますか?

質問者   私は教師をしていますが、
子供たちのように、自由に遊んだり、歌ったり踊ったりしたいです。
それなのに、社会に、自由奔放でいてはいけないと教え込まれました。

ガンガジ  スーパーマーケットでは自由奔放にふるまってはいけないと。

質問者   ええ。(笑い)

ガンガジ  公共の場であなたが自由に振る舞うのはかまわないのですけれどね、
あなたが大人なら、自由に振る舞えば、きっと誰かに批判されるだろうということがわかっていますよね。

質問者   はい。

ガンガジ  それでは、あなたにできる選択とは、

公共の場で自分がしたいように行動し自由でいるか。
それとも、皆がしなければならないような行動をし、それでもなお自由でいるか、です。

つまり、自由とは、行動のことではありません。
自由とは、この、無限の可能性です。

いつだったかインドにいた時、
裸で通りを歩き回っているインド人を見て、
自由な精神とはあれだよねと、感想をもらした西洋人がいましたが、

(笑い)

周りのインド人達は、あの人はどうかしていると、顔をしかめていました。

ニューヨークを裸で歩けば当然逮捕されます。
人を怖がらせたり、嫌な思いをさせるでしょう。

裸で歩くか歩かないか、
こういうことは自由とは全く関係がありません。
表面でしかありません。

つまり、
制限のまっただ中にいなければならなくても、だれかに裁かれ、批判され、一方的に決めつけられていても、
嫌われて、蔑まされているまっただ中にあっても、
身体や、健康、人生の喪失のまっただ中にいても、
置かれている状況とは関係なく、私たちは自由でいることができるのです。

これが本当の可能性。
私がお話しした無限の可能性です。

質問者   今ここでは、とても自由です。

ガンガジ  あなたがおっしゃる自由とは、どこにあるのでしょうか? 
周りの森の中ですか? ここにいる人々の中ですか? 私の前ですか?

質問者   この会場にいるときは自由でいられます。
そういうバイブレーションがありますから。

ガンガジ  この会場にいても、かならずしも自由だと感じていない方も大勢おられますよ。

でも、あなたはここでは自由だとおっしゃっている、
ということは、自由はあなたの中に存在しているのではありませんか?

質問者   そうですね。(笑い)

ガンガジ  どうぞたしかめてください。
どこにあるのかを。

あなたが、今ここでは自由だとおっしゃっている体験は、一体どこにありますか?

刑務所の中でお話をしたときに、
ある囚人が、会場で大泣きしていました。感動して泣いていたのです。

そして後から質問をなさいました。

「集会が終わった後、一体どういう顔をしてここで暮らしていったらいいんだろうか」と。

すると他の囚人が発言しました。
「大丈夫さ、
いつも通りにタフな態度でいたっていいんだよ。
平安や自由は胸の中に、うちがわに存在しているのだから。」と。

刑務所は大変に制限された場所ですね。

でもそのとおりなのです。

表面がどうあろうと、表で何が起きていようと、
真の自由はうちがわにあります。

あなたから奪い去ることは、誰にもできません

あなたがご自分でそれを発見なされば、
表面の現れがどうのこうので、それが失われることなど決してありません。

質問をありがとうございました。

質問者   どうもありがとうございます。






















































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真実を見いだすために何かに頼る必要はありません


質問者    ここに来ることができて、とても嬉しいです。

 

ガンガジ   ようこそいらっしゃいました。

 

質問者    私の質問はサポートに関するものです。

 

サポートは常にここに在ると、あなたがおっしゃっていました。

 

ガンガジ   ええ。

 

質問者    私も先ほどお話しなさった男性のように、本当は分離などどこにもないのだと感じられればよいのですが。

 

ガンガジ   さきほどの話など、全部忘れておしまいなさい。

 

(質問者 ガンガジ 笑い)

 

ガンガジ   ここにあるあなたの問題に注意を向けましょう。

あなたの問題はサポートがないということなのですか?

 

質問者    私が作った共同体のことに関してです。

 

できるだけのことをして共同体を作ったのですが、

作ってみたら全然サポートがないんです。

 

ガンガジ   それなら、まったく独りでいればいいのではありませんか?

 

質問者    。。。。

 

ずっと独りです。

 

ガンガジ   その通りです。

 

そのことを見いださなければなりません。

 

独りだということを。

 

質問者    (涙を拭きながら)

 

難しいです。

 

ガンガジ   何が難しいのでしょう?

 

質問者    信じていたからです。

あなたやここにいる方々のような、ハートが開いた人々は、お互いに助け合うことができると。

 

ガンガジ   今の状況があなたを助けます。

こういうのを、あなたを後押ししてくれる真のサポートというのです。

 

(質問者 会場 爆笑)

 

ガンガジ   (質問者を真っ正面から見つめ)

 

全く独りでいてご覧なさい。

 

質問者    。。。。

 

(しばらく沈黙)

 

あなたにそのように言われたら、

なんだか、大丈夫のような気がしています。

 

ガンガジ   (静かな口調で)

 

そうでしょう。

 

驚きですね。

 

あなたが抵抗をなさっていた、そのことが、

抵抗をおやめになったときに、あなたをサポートするのです。

 

“ああ、だいじょうぶ。

独りなんだ“

 

とね。

 

質問者    真実ですね。

 

ガンガジ   その通りです。

これが真実です。

 

今、この充足に気づいておられますか?

 

質問者    ときどき気づきます。

 

ガンガジ   今この瞬間のことをお尋ねしています。

 

質問者    ええ。

驚く程に充足しています。

 

ガンガジ   そうでしょう。

 

あなたが持っておられる考え、

 

例えば、

助けがどうのこうの、

他の人たちがどうのこうの、

将来がどうなるのか、

何が必要で、これはこうあるべきだ、

 

そのような考えを、今この瞬間だけでも、すべて諦めてご覧になってください。

 

そうすると明らかではありませんか?

 

質問者    (笑いながらうなずく)

 

ガンガジ   真実のあなたが、ここに在りますね。

 

完璧に“独り”でいると、

その中に何か境界があるでしょうか?

 

質問者    (しばらく沈黙)

 

ガンガジ   何を発見されたのですか?

 

質問者    これは大変に大きな探求です。

 

ガンガジ   そうですね。

 

質問者    私の一生を通しての。

 

ガンガジ   そう。

 

素晴らしいですね。

終わりのない探求ですよ。

 

質問者    感じることはできますが、つかみ取ることができません。

驚きに満ちていて

 

ガンガジ   その通りです。

 

つかむことは不可能。

 

おっしゃる通りです。

 

つかもうとなさったとたんに、

 

“なぜあなたや他の人が、

ああしなかったのか、こうしなかったのか“という、

 

“あなたの問題”が現れるでしょう。

 

でもそうなったら、再び、

独りにお戻りなさい。

 

これもまた、十字架の磔の物語ですね。

 

たった独り。

 

これ以上無いほど、

完全に独り。

 

(会場を見回しながら)

 

私達は誰でも磔の物語を持っています。

 

世界には、キリストの物語があります。

ご存知ですよね。

 

磔になり、肩は脱臼し、血が流れ、

弟子達につばを吐かれ、忌み嫌われたのです。

 

33歳という若さです。

活動の絶頂期にありました。

 

神さえも、そばにいてはくれませんでした。

神の王国にもかかわらず。

 

私達は私達の磔の物語に皆不平を漏らしますが、

でもすべてパーフェクトなのです。

 

(ガンガジ、質問者に向き直り)

 

“独り”という、あなたの磔の物語のなかに

あなたへのサポートがどれだけあることでしょうか。

 

質問者   (しずかに微笑む)

 

ガンガジ   でもこのサポートは、

ご自分で答えを見いだすしかないのです。

 

磔の物語は、あなたの内側で起きるかもしれませんし、

外側で起きるかもしれません。どちらでも関係がありません。

 

どちらにしても、あなたが、完全に独りに投げ出される瞬間があります。

その瞬間が重要なサポートです。

 

質問者   私の人生に、スピリチュアルな共同体を作るというテーマがありました。

 

共同体に住みたいという望みがずっとありました。

 

ガンガジ   まあまあ、それはご苦労だこと。

 

実際に住んでご覧になったら、どんなだかおわかりになるわ。

 

(爆笑)

 

質問者    もちろん問題は耳にしたことがありました。

 

でも、そこに住むことができたら、

きっと私は、 素晴らしい人々とともに、自由に生き生きと暮らせるだろうと、 信じていたんです。

 

ガンガジ   世界中にたくさんありますよ。

 

質問者    何がここで起きたのかわかりませんが、

独りだと認めたとたんに、解放されました。

 

ガンガジ   その通りです。

 

パパジが、こそ泥達はみんな一緒に住まわせろと、

おっしゃっていました。

 

(笑い)

 

どういう意味かおわかりでしょうか?

 

あなたが自由であるなら、

誰かと一緒にいなければならないということはまったくありません。

 

一緒にいようが、まったく独りでいようが、そのようなことは関係がなくなります。

 

質問者    うなずく。

 

ガンガジ   私は、共同体に反感をもっているのではありません。

美しい考えだと思います。

 

(笑いながら)

 

“ガンガジ共同体”に、ひょっとしたら私も行き着くかもしれませんし

 

(ガンガジ 会場 しばらく大爆笑)

 

私が申し上げたいのは、

“あてにしない” ということです。

 

最も深い進化や、

自由や、愛、

そしてそこには境界が無い、

 

ということを見いだす為に、ほかの何かに頼らないことです。

 

物理的な境界や、心理的な境界というものがありますが、

 

真実のあなたという存在には、

境界はないのです。

 

あなたのお顔を皆さんにお見せしてください。

 

解放ですね。

 

あなたが質問してくださったことに感謝いたします。

 

共同体は素晴らしいですね。

世界という共同体。

心から支援します。

 

(会場からの声)    もともと共同体(コミュニティー)には、

独りという意味があります。

 

ガンガジ   ええ。

 

質問者    心の内側のコミュニティーは瞑想だと思います。

 

ガンガジ   では、瞑想から出ていらっしゃると、あなたはどうなるのでしょうか。

 

これは、先ほどの共同体の話と同じではありませんか?

 

あなたを充足させてくれる“何か”を求めておられませんか?

 

それが、

本当に独りでいることから、あなたを遠ざけてしまいます。

 

(微笑みながら)

 

でも、そのことに気づく度に、再び、独りでいる選択ができます。

 

完全に、完璧に、独りです。

 

そうすると 瞬時にして、あなたが思い描く理想という重荷から解放されます。

 

あなたの役割は、コミュニティーを作ることにあるのかもしれません。

あなたはそのように使われるのかもしれません。

私にはわかりません。

それはあるがままです。

そのようなことは二の次です。

 

私が申し上げたいことは、重荷からの解放です。

 

あなたが“独り”でおられるなら、

共同体ができようができまいが、

“理想の共同体”という重荷にはなりません。

 

質問者    (笑い)

 

ガンガジ    あの人たちにこう行動して欲しい

という重荷からの解放です。

 

質問者    (晴れやかな表情で)

 

ハレルヤ!

 

ガンガジ    その通りです。

 

質問者     ありがとうございます。

 

ガンガジ    明確でしたね。

 

質問者     お会いできて本当に良かったです。

 

ガンガジ    私もです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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自由に生きる、とは


ガンガジ   昨日、このような質問をなさった方がおられました。

『あなたがおっしゃっていることが本当であるのなら、虐待的な関係の結婚を私はそのまま続けるべきだったのですよね。』と。

もちろん私は彼女に、
私がお話ししたのはそのようなことではありません。と申しあげました。

大切なポイントですので、もう一度ここでお話しいたしましょう。

私たちは、話を聞いたときに、自分という概念の中で解釈し理解するわけですが、
私がお話ししていることを、たとえ皆様がどのようにお聞きになったとしても、
私は、

『人生のできごとに、皆様がどのように対処したらよいか』

という方法を説いているのではありません。
そうではなく、方法や処方箋を脇においておくようにと提案しているのです。

それは実際には、あなたの中に息づいている、自由や、明晰さの源の発見です。

あなたがそれを発見なされば、 誰かがあなたに、そうするべきだと言ったという理由からではなく、 虐待的結婚を続けるか否かということの答えが、あなたの本質の明晰さの中から自然とあらわになるでしょう。

これが、自由という意味です。

一般的な処方箋は、虐待的な結婚をやめるということでしょう。
でも私は、そのようにも申し上げないでしょう。
ひょっとすると虐待的結婚が、適切であることもあるかもしれません。

正しい答えなど、一体、誰にわかるのでしょう?
私たちには、知る由もありません。

もちろん、身体的な危険があるのでしたらその場から立ち去るべきです。

けれども、虐待という言葉そのものには、大変に広い解釈があります。
例えば、買い物をしていたあなたに、誰かが大変に失礼なことを言ったとします。これを、虐待と表現なさる方がいらっしゃるかもしれません。
また、両親にこどもが5人もいなければ、私はもっと注目されて育っただろうに、というように、関心を得られなかったことを虐待と表現する方もいらっしゃるかもしれません。

このように虐待という言葉は、被害者や、生存者という言葉と同じように、安易に使われています。

そして私たちは、いかに自分が虐待され、被害者であり、その生存者であるかという公式を作り上げます。その結果、自分自身にレッテルを貼付け、苦しみを背負います。

私はそうなのだ、というふうに認識をし始め、
教会やスピリチュアルな先生、テレビの悩み相談、などというような援助団体が語っている、『どのように生きたらいいか』という処方箋に従って生きるようになります。

誰かが教えてくれる『どうすればいいか』に従って生きるのでは、まったくこどもと同じです。

ですから、成長なさることです。
そして一体どうしたらいいのかを、誰にも言ってもらわないことです。

そうしたとき、あなたは、あなたの本質である明晰さ、静寂な意識へと引き戻されます。そこには、イエスがそう言ったとか、ガンガジがそうしろと言ったとか、ラマナがそう言った、というような処方箋はありません。

私があなたを静けさへと導く目的はそれです。

するべきだ、するべきではない、などというおしゃべりの根底には、いつも必ず、静寂が在ります。
その静寂はあなたご自身の『開かれた意識』です。
この静寂は、それ自身に目覚めている、あなたの本質です。

すべきであるとか、すべきではないということとは関係のない、そして、すべきである、すべきでないということをも包み込んでいる、愛そのものです。

そうすべきであるということや、そうすべきではないということは、この意識の中に生まれるのです。時には必要なことでしょう。そして全く必要がないこともあるでしょう。
すべきだとか、すべきでないということが、すべて間違っていると申し上げている訳ではありません。

私たちは、幼稚園や小学校のときから、何かに従うように訓練されてきました。
そしてスピリチュアルな生き方の中でも、同じようなことをしています。
誰かの、そうするべきだという言葉に従っています。

全く必要のない重荷です。

昨晩お話しいたしましたが、
私たちの脳には、
理由づけたり、計算したり、分析したり、定義づけたり、という半球があります。

大変にパワフルで、まさに人間の側面としての脳です。

けれども、この脳の左半球は、もう片方の脳半球に、瞬時にしてゆだね、任せることができます。
脳の右半球は、解放的であり、空の叡智です。定義づけたり意味づけることができません。

左半球の見地からすれば、これは大変にショッキングなことです。
なぜなら、私たちは、幼い頃から、ものごとをうまくこなすことをトレーニングされてきているからです。

それはたしかに大変に素晴らしい訓練です。
でも、それが、最終的なものではありません。
そこには何かが欠けています。
私たちは決してこれだけでは満たされません。

人生をうまくこなすのは知性です。
それなのに、何かが欠けているのです。

そして、
考えたり、定義づけたり、憶測したりというような、理論的で計算的なマインドを脇に置いた時、そこに全く異なった側面があるということに単純に気づく一瞬があります。
あなたはそれを瞑想とおっしゃるのかもしれませんし、リトリートとおっしゃるのかもしれませんが、瞬時にして発見することができます。

その部分は、 宇宙全体に共鳴しています。
言葉も、文脈も、文法もなく、宇宙全体と対話しています。

直接的な体験です。

このゆだねの中で、あなたは理論的なマインドを使いながら問いかけることができます。

その問いかけとは、
『私がこの人生において本当に求めているのは何だろうか.』
というものかもしれませんし、
『私とは一体誰なのか.』
というものかもしれません。

その時あなたは、
定義づけたり、計算をしたりというあなたの脳に、その質問をしているのではありません。
広大で、無限で、あらゆるすべてとつながっている脳の側面に質問をしているのです。

そうすると、自然に、理論的な部分と広大無限な部分の『源』につながります。

陰と陽ですね。
陰と陽が生まれる以前である、あなたの本質です。

陰と陽だとかマインドの極性と言ってもいいですが、
それは、論理的マインドと、開放的マインドです。
マインドと、ハートと呼ばれることもあります。
どのように呼ばれていてもかまいません。

この直接的体験はあなたのものです。

実際、あなたには、一日に何度も、 今ここという空間の体験があります。
ごく日常的に、頻繁にそのようなことは起きています。

けれども私たちは、20分間の瞑想や、一時間の礼拝や集会の時間をのぞいては、理論づけるということを、何もかもすべての上位に位置づけている社会に住んでいます。
その結果、広大な静寂や、平安への誘いを見過ごしています。

それは、何も目標やゴールがなく、自分を優れているとか、劣っているというように定義づけることもなく、どのくらい獲得したかということを計ることもない静寂です。

ですから、ただ止まり、そのままでいてください。

私はあなたに、世間から身を隠し隠遁生活を送るようにと申し上げているのではありません。何もかもから身を引き、聖者になるようにと申し上げているのではありません。

『ただ静寂でいる』というこの誘いの瞬間が、あなたの人生の毎日の中の、毎瞬毎瞬にあるということに気づいていただきたいのです。

その気づきの中で、あなたは一瞬にして、ご自身がその静寂であり、平安そのものであることを発見なさるでしょう。

あなたのランクはどのあたりなのか、
あなたが悟っている度合い、または悟っていない度合いがどのへんであるのか、などということを知る必要もなく、
あなたご自身が平安そのものであることを発見なさるでしょう。

多くの方々が、死の床でそれを発見されます。
あれやこれやを得、それを失わずにいるために、そうするべきだ、べきではないといろいろなことをやっていらしたわけですが、そのようなことをいっさいやめゆだねた死の床で、平安を発見されます。
でも、死の床まで待つことはありませんね。
たった今、この瞬間に、見つけることができます。

そのことを発見なさると、
あなたは、 実際には広大で一つにつながったマインドから情報を得ながら、
理性的なマインドで生きるようになるでしょう。

そうなったとき、あなたの理性は創造的です。
自由です。

そうすべきだとか、すべきではないと、誰かが言った言葉や、
すべきだ、すべきではない、ああすべきではなかった、という、あなたご自身の言葉で定義づけられていないからです。

ご自分自身を『もの』のように定義づける必要はありません。

私たちは、
『私』という定義が、もっと良い『私』や、もっと素晴らしい『私』という定義になるように希望を持っています。そしてそうなれば平安が得られ、静かに休息でき、愛されるだろう、という認識を持っています。

でも、平安も、愛も、今、もうここにあります。
瞬間的に、今ここにそれがあることが発見できます。

あなたが、あなたご自身を定義づけたとたんに、
その定義によって、あなたの注意は、今ここにある『それ』から遠ざかってしまうことがおわかりになるでしょう。

今ここにある『それ』は、定義などとは関わりがありません。

私は皆さんに、自我を排除せよとか、抹殺しければならないとは申し上げてはいません。これは殺しの講座ではありません。

自我、それは定義づける側面である脳ですが、
それによって全く左右されることのないのは何なのか、
もう既に自由であるのは何なのか、ということへの単純な気づきのことをお話ししているのです。

そしてその部分に注意を向け、それを受け入れ、ゆだねたなら、そのもっと奥にあるのが何かにお気づきになるでしょう。

そうなるとあなたは、とても驚くような人生を生き始めるでしょう。
あなたご自身にも大変な驚きでしょうし、あなたの周りの人々にも驚きかもしれません。
思ってもいなかったようなことが起き、あなたの周りが、揺さぶられるかもしれません。

今回の大統領選挙がそうでした。
民主党だとか共和党だとかというような議論を超えて、
アメリカにとっても世界にとっても、今回起きたことは非常に大きな出来事です。
私たちの意識の中で、絶対に起きるはずのないことが起きたのです。

集合意識においてこのようなことが起きるのですから、
個人の意識においては、可能性はもっともっと大きいのです。

あなたの心の中のおしゃべり、つまり、あなたが学んできたことや、あなたの先生に言われたこと、あなたの両親、テレビの番組、政治、教会、スピリチュアルリーディング、などをもとにして寄せ集つめた、あなたとは誰か、ということに対する定義付けをやめてご覧なさい。

異端ですね。

ただ単純に止めるのです。
そうすれば、いまここにある『それ』に気づきます。

それに、名前を付けないでください。
セルフと名付ければ、自我というふうにとらえるかもしれません。

定義づけないでください。
定義づける必要がないのです。

ああなるほど、それは目覚めだな、悟りのことだな、というように定義づけないでください。悟っていると定義づけると、悟っていないという定義が生まれます。
ですから、定義づけず、何もせず、ただそのままにしておいてください。

そうしたときにどうなるか、ご覧になってください。

あなたが、生まれなからにして自然に持っている脳の本質が、あらゆるすべての側面に対して自由に解放されます。

真の対話は、そこからやってきます。
そうなれば、言語を使用しても、理屈や理論を用いても全く問題がありません。

よくご覧になれば、
実際は大変に論理的です。
大変に科学的です。
私たちは皆、つながっています。
私たちの身体もマインドも大変に空間的です。
私たち感情は単なる波のパターンです。

理屈ではなく、体験的にそうです。

そのことが発見されると、あなたの人生は、本や地図にそって生きるのではなくなります。
生き生きとして、予測がつきません。
結果がどうなるのか、あなたにはわかりません。
私たちの誰も、結果がどうなるかなど知りません。
でも、そのことが意識的にわかると、ゆだねて生きるようになります。

加速されます。

もちろん、痛みがあったり、不幸せや悲しみや怒りを感じるときがあるでしょう。
でも、だからといって、それが一体どうなのでしょう。

もしあなたがご自分を、そのような、通り過ぎていくものによって定義づけていなければ、何が通り過ぎていこうが、すべてが喜びとともに迎え入れられることでしょう。
たとえ喜びとともに迎え入れることができないようなことが通りすぎていったとしてもです。

ですから私は、この誤解に関して説明をしなければならないのです。

初めにお話ししたことをもう一度申し上げます。

たとえあなたが、私がお話ししていることをどのようにお聞きになったとしても、
私は、人生をどのように生きるかということに対する処方箋を差し上げてはいません。
私がお話ししているのは、
あなたはあらゆる処方箋から解放されて生きることができるということです。

あらゆる聖人たちが皆、処方箋を手放し自由に生きました。
ブッダや、イエスもそうでした。

あなたにも可能です。
私たちのような普通の人々にそれが可能です。
100年前、50年前なら、このような可能性があるなどとは、だれも、夢にも思わなかったでしょう。
でも、今はそれが絶対的に可能です。

なんと素晴らしいのでしょう。

ですからここでのヴィジランスとは、
理論的な脳が、いかに処方箋を作ってしまうかに気づくことです。
理論的な脳は、情報を集めて、それを定義付け、ゴールを定め、そこに向かい走り始めます。
ですから、そのことに気づいてください。

気づいてみるだけなら、そこには何の問題ありません。
それを見て、ただ単純に開くのです。

一歩下がって、
手放し、
発見してください。

いったいここにあるのは何だろう。
混乱のさなかにここにある平安、それは何だろう。

私とは何だろう。

そのことを発見なさってください。

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