止まる | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
真の平安


質問者   身体のどこかしらに常に痛みを抱えています。そのような身体に生まれついたようです。
そのため子供の頃から厳しい食事制限を続けています。
このような身体の状態が原因で、
私は、考えるのを止め平安でいることと、自分の思考と戦うことの両極を、
まるでヨーヨーのように、行ったり来たりしています。
あるときは平安ですが、あるときは恐怖で一杯というように。

ガンガジ   私たちは、”私” という言葉を、その時々に異なった意味で使っています。
ときには思考や理性というようなマインドの働きを、”私” と表現し、
ときには純粋な気づきの意識を ”私” と表現します。

あなたがたった今お話しになった、”私” とはどのような私を指しているのでしょうか?
ご自分で調べてみることはできますか?

質問者    。。。

ガンガジ   あなたはたった今、
『 ”私” は、平安と恐怖の両極を行ったり来たりしている』とおっしゃいました。

ここであなたがおっしゃっている ”私” とはマインドの働きのことですね。
あなたのマインドが、あるときは平安を感じ、あるときは恐怖を感じているわけです。
あなたが言及された平安も恐怖も、どちらもマインドの活動の中で起きている事柄です。

もちろんあなたがお話しになっているような難しい状況の中で、
マインドが平安と恐怖の間を行ったり来たりするのは当たり前です。
それは悪いわけでも間違っているわけでもありません。

でも私がお話ししたいのは、
あなたのマインドが平安を感じていようが恐怖を感じていようが、どのような状態にあろうと関わり無く、
行ったり来たりしない何かがここにあるということです。
全く揺らがない何かが。

質問者   (しばらく沈黙)

ガンガジ   それは何でしょう?

質問者    。。。

静けさ。

ガンガジ   その通りです。

あなたのマインドの静けさのことを話しているのではありませんよ。
もちろん時にはマインドが静かになることはあるかもしれませんし、それはそれで素晴らしいですね。

けれども今私たちがここで話している静けさとは、あなたのマインドの活動がやってくる ”源” のことです。
本質の意識です。
本当の ”私” です。

あなたの身体や性格、感情やマインドの働きを指している ”私” とは、
この源からやってきては消えてしまう、火花のような代物です。
どれも長続きはせず、やがては消えてしまいます。
消えた後、また新たな火花が現れるかもしれません。

けれどもこのような火花が現れ出てくる ”源” は常に変化することのない、静寂な意識です。
本当の ”私" です。

あなたのマインドは、あるときは平安を認識し、あるときは認識していないかもしれません。
けれども、あなたが認識しているいないにまったく関わらず、
真の平安はもう既に存在しています。
揺らぐことの無い静寂、
マインドの成熟が、この、本当の ”私” への気づきへと導きます。

マインドの活動はどのようなものであれ、あなたが言及なさった、静けさからやってきます。
あなたのマインドの活動がどのようであれ、
マインドが源と分離していることはあり得ません。

質問者    なるほど。

ガンガジ   私たちはある変化を好み、ある変化は好みません。
人が生まれたり死んだり、季節が変わったり、地球の地理や状態が変化したりというように、
ある変化は好まれ、ある変化は嫌われるのは自然です。
あなたは、ある日は気分がとても良く、
ある日は気分がすぐれない。
痛みがあればなおさら、良い気分や嫌な気分があって当然です。
それが人間です。

けれども、
あなたの核に常に変わらない静寂な意識が存在することに気づくと、
気分や感情の如何で、ご自分の価値を計ることがなくなるでしょう。

もちろん身体の具合が悪い日は気分が悪いのは当然ですし、
マインドは、
『何故私はこんな身体に生まれたのだろうか』と悩むのは当然ですが、
このような感情に対して心を開いてご覧になってください。

底には恐れがあるはずです。
いつか良くなるのだろうか、
いつまでこのようなことが続くのだろうかというような恐れです。
恐れは大変に人間的ですし、
悪いわけでも間違っているのでもありません。

質問者    恐れに心を開くことができる時もあります。
恐れに対して心を開くと静けさが感じられますが、でもやがて再び恐れにとらわれます。
そのことが私には両極を行ったり来たりしているように感じられるのですが。。。

ガンガジ   両極を行ったり来たりしていると、あなたが決めつけてしまうと、
調査の機会がなくなってしまいます。

あなたがおっしゃるところのどちらの極をも、異なったレベルの恐れであるととらえて、
今ここに存在しているのは何かを調べる機会であると受けとってご覧になってはいかがでしょう。

”何が現れても間違っているわけではないのです。
ただ単にそれが現れたというだけのことです。”

シンプルに申し上げますとそのようになります。

たとえ何が現れても、
あれこれ追求したがるマインドの働きに従うのを止めるのです。

『この出来事が起きた意味は何だろうか?』
『何故こんな感情を感じているのだろうか?』
『このような感情は持つべきではないのに』

というような、マインドの考えに従わない。
そうすると、
感情は感情として、ただそのままに体験する機会ができます。
そして、
感情のもっと奥、あなたの核に何が存在するのかを体験する機会がそこにあります。





















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