開かれた存在であること | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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こどもたちに与えることのできる最高の贈り物とは


質問者     子供たちを取り巻いている世界のことを考えると恐怖がやってきます。
どのようなことがあっても彼らを守らなくてはならないという気持ちと同時に、私がこの世からいなくなってしまったら、いったい誰が私の子供たちを守るのだろうかという考えが湧いてきて、恐れでいっぱいになります。

こんなふうに私は、私自身の事で恐怖を感じるというよりも、子供たちの事で恐怖を感じます。

ガンガジ    ええ、そうですねえ。

あなたは、ご自分の事で恐怖を感じるのではないとおっしゃっていますが、子供という、あなたご自身の延長線上で恐怖を感じていらっしゃるのです。

あなたが気づかなければならない重要な事は、
最終的には、子供たちの身の上に起きるできごとを、あなたがコントロールする事はできないという事です。

子供たちの事に限らず、あなたにコントロールできるものは、実際には何もありません。

この、コントロールができないという恐れは、私たちの恐怖の、まさに核心の中の核心です。
というのも、生存していかなければならない動物としての私たちは、生き抜くために、例えば、なんとかして食べるものにありつきたいとか、住処を確保したい、サポートしてくれる仲間を見つけたい、子供の命を危険から守りたいという具合に、コントロールするすべを探し求めるからです。

ですから、私たち人間という動物の、コントロールをしたいという根本的な本能にもかかわらず、死という現実があり、最終的には、自分自身も、子供たちも、地球でさえも、私たち個人にはコントロールすることはできないのだという現実に気づく事は、私たちにとって衝撃的な瞬間です。

ぞっとする瞬間です。

けれどもそれは、
すべてを明け渡し、深遠な開放が起きる可能性のある瞬間でもあります。

あなたが、この、ぞっとするような瞬間に、心を開き、完全に明け渡すと、
あなたと子供たちとの人間関係が,心配によって汚染されるかわりに、
命そのもの、つまり、あなたという個人の命を超えた、もっともっと大きな何ものかが私たちのすべてを支えているということに気づく可能性があります。

それを宗教では神と呼んでいるのかもしれません。形而上学者は、カルマというふうに呼んでいるのでしょうか。なんと呼ばれていようとそれはかまわないのですが、個人を超えた『命そのもの』、『命の源』がそこには在り、それがあらゆるものを動かしているという事に気づく可能性です。

その大きなものの中で、ある人は苦しみ、ある人は死に、また、ある人は成功し、ある人は失敗するでしょう。

けれども、あなたがそれに全託をすれば、あなたは、ご自分が平安でいるということを、ご自分自身でコントロールすることが可能になります。

そうなると、子供たちは恐れの代わりに、あなたから平安を受け取ることでしょう。
 
質問者    わかりました。

それでは、
恐れずに、人生のいろいろな状況に対処していくという事を、子供たちにどのようにして教えたらよいのでしょう。
恐れにとらわれず、でも、注意深くしているようにと教えたいのですが。

ガンガジ

そうですね。
なかには恐れた方がよい状況というのもあります。

でも、どのようなことでもそうですが、 あなたが、誰かに教える事ができることというのは、唯一、あなたご自身がご自分で気づかれたことだけです。

あなたご自身が体験した事であるのならば、どのような形を使っても、伝わるべきことが伝わっていきます。
例を出して説明しても、本を読んであげたとしても、言葉を通しても、通さずとも形を選びません。

初めにあなたがご自分自身で気づかなければならない事は、怖がっていることで、恐れがあなたの人生を矮小化してしまっているということです。
そして、あなたがそのことに、こころを開く意志を持てば、あなたはきっと驚かれることでしょう。
なぜなら生きる力が、 あなたを通して、自然に、もっと自由にあふれ出てくるからです。

子供たちに教えるとはそういうことです。

あなたは、あなたの子供たちと一緒にいるということで、子供たちにいつも何かを教えています。あなたが持っているものを彼らに発信し、彼らはそれを常に吸い取っています。 
その事に気づく意志があれば、あなたが彼らに与えることのできる、最高の贈り物が何なのかがわかりますね。
つまりそれは、あなた自身が、真実のあなたに完全に目覚めるということです。彼らはそれを確実にキャッチするでしょう。

私たちは、お互いが出している波動でつながっています。ですから、 まるで、伝染病に感染するかのように、恐怖や、怒りを、お互いの間で受け取ってしまいます。同じように、歓びや、ゆだねや、『私たち』いうアイデンティティーよりももっと奥にある、真実の私たち自身を深く発見しようという意志も伝わります。

そのアイデンティティーは、人間であるとか、母であるとか、男だとか、女だとか、探求者だとか、悟っているだとか、いないだとか、そういうものであるのかもしれませんが、そういったもののもっと奥底に、もうすでに、あらゆるアイデンティティーから解放されていて、自由であるものがあります。それを発見しようという意志も伝わるのです。

そうなると、恐れにも、適切な役割があらわれます。
適切でない恐れは、明らかにおわかりになることでしょう。

私が皆様と会話を始めたとき、私の師が私に向かって、
『何を、いったいどうやって教えようかなんて、いっさい心配しなくてもいいんだよ。ただ、君が体験した事を話せばいいんだ。』
とおっしゃったのですが、まったくそのとおりでした。

あなたは、単純にあなたの体験を分かち合えばよいのです。
もしあなたの体験が、あなたが教えたい事であるのならば、その場にあなたがいるというだけでそれは伝わっていくからです。

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開かれた存在の人間として在りなさい

 

 

質問者    最近、社会は、以前にも増して不安にあふれているように見えます。世の中がどうなっていくのか、これから数年、どのようなことが起きるのかと、 人々は不安でいっぱいです。

不 安な人々をなんとかしようと、私は、日夜奔走して、眠る暇もないほど忙しいのですが、時が迫っているような危機感を覚えることがあります。
いったいどうすればよいのでしょう。

ガンガジ
   そうですね。
確かに社会には不安がいっぱいありますね。
でもそれは、今に限ったことではありません。
歴史を顧みればわかりますが、
いつの時代にも、社会は何らかの恐怖や不安でいっぱいでした。

たとえ、どれほど社会が混乱していようと、
まわりがどんなに騒がしかろうと、
私たちは、混乱のまっただ中に居ながらにして、
静けさであり、平安である、ことを選択することができます。

人は、つねに、何かに対して、責任を負っていると感じています。
それは、世界の混乱に対してかもしれませんし、
国や地球環境や平和、家族に対してかもしれません。

けれども、あなたにある責任とは、
『つねに、どのようなときにも、開かれた存在でいること。』です。

ただ、つねに、開かれた存在としての人間で在りなさい。
そうすれば、どこにいても、あなたから、愛が溢れます。

『あなた』は、なにもしなくても、あとはすべて愛がやってくれるでしょう。

『あなた』や、『私』が、混乱している人々を、どうこうすることはできません。

 

 

 

 

 

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