死 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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痛みにしっかりと向き合う。真実をあらわにしてくれるのは、他ならぬ、痛みなのだから
ブルー睡蓮(1 - 1).jpg


質問者    美しい娘、レイチェルを交通事故で失いました。

あなたにお会いするまであまり泣いていなかったのですが、

ここでは、あなたが部屋に入っていらっしゃるたびに泣いています。

 

ガンガジ   たくさん涙を流されているのでしょうね。

 

質問者    今朝もこの部屋で泣きました。

本当にたくさん泣いたので、ちり紙を持っていたら良かったと思いました。


でも、ある時点で、もう手放しました。

あるがままにまかせました。

すると、私にとっては重要だったいろいろなことが、私の顔を伝わって流れていったことに気づきました。

手放せて良かった。。。

 

レイチェルの死をめぐっては、たくさんの物語がありました。

ただ、

あなたが以前、

「物語の中での考えや感情を、『本当の私』と同一視しないように。それらは『真実の私』ではないのだから」

と、おっしゃっていたのを覚えていたのです。

それで、物語を見つけるたびに、それを手放すという選択をしています。

そうすると、即座に苦しみが終わります。

 

苦しくないから泣いていない。という物語がありました。

もちろん、まだまだたくさんの物語があるのですが、

あまり泣いていなかったのは、

忙しくて泣く暇がない、という物語がそこにあったからだと思いました。

 

レイチェルが死んでしまったので、

脳性麻痺や、いろいろな医学的な問題を抱える3歳の孫を育てているのですが、そのようなわけで、私には、忙しいという正当な理由がありました。

やることがたくさんあるのです。

 

でも、今日は、

『真実を語りなさい』とあなたがおっしゃるのを、何度も耳にしました。

 

そして、自分に真実を語った時、

レイチェルがもういない、という事実とともにいることを避ける為に、忙しくしているのだと、気づいたのです。

忙しく過ごすことを自分で選択していたのです。

 

彼女はもうここにはいません。

娘に会いたくて、何もかもすべてが彼女を思い起こさせます。

でも、私はただ、その事実とともにいたいです。

 

ガンガジ   そうですね。そこが、あなたが居るべきところですね。

 

質問者    そこにいることを避けて、忙しく動き回ったり、いろいろなことをしていた理由には、恐れがかかわっているのだと思いました。

もしも、感情をそのままにしておいたら、自分をコントロールできなくなってしまうかもしれないという恐れです。

 

ガンガジ   そうですね。

 

質問者    もし自分をコントロールできなくなってしまったら、どうやって孫のエデンの世話をしたらいいのかしら。

やらなければいけないことを、いったいどうやってこなしていけばいいのかしら。でも、もうすぐガンガジの修養会があるから、あそこでならコントロールできなくなっても大丈夫だわと。

そんなふうに、思っていたのだと思います。

 

(笑い)

 

そして今、ここにいるわけですが、

これまで、人生のすべてを傾けて忙しく動き回り、直面することを避けてきたそれは、自分で仕切ったりコントロールすることができないものなのだ、ということに気づきました。

 

ガンガジ   そのとおりですね。

コントロールのまねごとですね。

 

質問者    コントロールするのはもう嫌です。明け渡したいです。

 

ガンガジ   まねごとは必要ありませんね。

素晴らしいですね。

 

参加者    それで、ほんとうにもうたくさん泣いたんです。

そうしたら、すっきりしました。

とても気持ちがよかった。

 

ガンガジ   亡くした子どもへの深い悲しみは美しいです。

 

質問者     そしてもう一つ、

今朝ここに座っていて気づいたのは、感謝の気持ちです。

 

レイチェルに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。

レイチェルは、とってもすばらしい人でした。

いつもそうでしたし、今もそうです。

そうして彼女と一緒にいることのできた23年間に、

それから、彼女の母親であるという名誉と、

そのような深いレベルで、彼女のことを知ることができたことに、心からの感謝を感じるのです。

 

ガンガジ   幸運ですね。

 

質問者    初め、私の物語の中には、

孫が母親の死から立ち直れないのではないかというものがありました。

 

でも孫は3歳で、喜びそのものです。

母親が、もうそこにはいないことを知っているのですが、

いつも母親に話しかけています。

彼女の存在をとても強く感じているのだと思います。

母親の愛を感じ、彼女を愛しているのです。

そのことが、私には、ある意味とてもうらやましいのです。

私もそんなふうに感じてみたい。

レイチェルがまだそこにいるように感じたい。

娘がそこにいるのだと知っていて、そんなふうに感じたい。

 

そして、思ったのは、

このような切望は、いつも、誰の中にもある、あの切望と同じだということです。

 

ガンガジ   そのとおりですね。

 

質問者     真我への切望だと思いました。

そして、ほんの一瞬ですが、『本当の私』がわかった瞬間がありました。

レイチェルと繋がったのです。

レイチェルと一緒でした。

 

ガンガジ   そうです。同じです。

その切望は、あなたの味方です。

忙しいからと、どこかに追いやってしまうものではありません。

あなたを預けてしまえる相手です。

切望の中に飛び込み、任せてしまいましょう

 

質問者    この切望は、真理です。

 

ガンガジ   そうですね。

真理への道、というふうに申し上げたくないのは、

もっともっと近いからです。

真理という歌が、それ自身に呼びかけているとでも申しましょうか。

 

けれど、私たちはずっと恐れてきました。

自分でコントロールすることができなくなるからです。

その歌の中に飛び込むと、自分で仕切っているのだという思い込みのすべてを失います。

 

質問者    でも気が軽くなります。

 

ガンガジ   そうですね。

 

質問者    もう、忙しく動き回っていなくてもいいのです。

 

ガンガジ    そのとおりですね。

それは、あなたのお孫さんにとっても、素晴らしいことですね。

これからは、もっと深いところで、お孫さんに関われますね。

 

質問者    私の中に、この子を育てるのに私は適任ではない、という物語もあり、それで仕事に没頭してめまぐるしく動き回っていたのですけれど、

なんて馬鹿だったのでしょう。

この子と一緒にいる為に必要なのは、ただ愛だけです。

 

ガンガジ   そのとおりですね。

 

質問者    その物語がわたしを彼女から遠ざけていました。     

 

ガンガジ   とても明確ですね。

 

参加者    修養会が始まって最初の日だというのに、

この先、どのようなことが起きるのか、本当に楽しみです。

 

先週、サットサンで、あなたをお見かけしましたが、

その時は、あなたがきっと私の心の痛みを取り除いてくださるのだと思い、期待していました。

 

ガンガジ   あらあら、そうじゃないのです。

もしも私が、自分の仕事をちゃんとやっているのだとすれば、

あなたたちが痛みから逃げられないように増幅させているのです。

なぜかと申しますと、

真実をあらわにしてくれるのは、ほかならぬ、痛みだからです。

 

私たちは人生のすべてを、

痛みをコントロールしたり避けるために、または、痛みから救われようと過ごしています。

でも、そうではないのです。

痛みにしっかりと出会い、避けることを止めて進んで体験するならば、

それは、ラマナが死と出会ったのとまったく同じです。

単に、あなた特有の、あなた用の脚色であるという違いだけです。

 

質問者    親しい友人が、私にこんなことを言いました。

「つかんでいるものを手放し、心をただ壊れるままにまかせていれば、そこから、本当のあなたが現れる」って。

 

ガンガジ   それは素晴らしい友ね。

 

私たちは皆、心が壊れるままにまかせるということがとても怖いですね。

 

心が痛むたびにそこには亀裂が生じ、

そうして、何度も何度も、繰り返し心が壊れるままに任せると、

亀裂はどんどん、どんどん大きくなります。

でも、

亀裂はただの空間にすぎないのです。

あなたの真我、真実のあなた、という空間です。

 

ほとんどの人々は、痛みを取り除く為にスピリチュアルな探求に加わりまが、もっともなことです。

なぜなら、痛みがなくなれば幸せになるというふうに、みな思い込んでいるからです。

でも、スピリチュアルな道をずっと先までやってくると、

それは、一つの痛みを他の痛みにすりかえただけだったということが見えてきます。あるいは、痛みを覆い隠したり、固めてしまったり、しびれさせて感じないようにするのが得意になっただけだとわかります。

 

痛みにはしっかり向き合わなければいけません。

そうすればわかります。

向き合うまでは、これは単なる知識でしかありません。

単なる記憶している言葉であり、見識であり、

他の人の過ちを指摘して正したりするような、そういうたぐいのものでしかありません。


でも、痛みとしっかり出会うとき、あなたは、切望に出会い、

そして本当のあなたに出会います。

 

質問者    あなたが、さきほど手紙をお読みになった時気づいたことがあります。それは、問いかければ答えが与えられのだということでした。答えを探すことを止めて、ただ問いかけるのですね。

 

ガンガジ   そのとおりです。


本当の問いかけというのはそのようなものです。

あなたがそうあってほしいという答えを携えながら問うのではないのです。

ただ単に心を開くと、答えはもうそこにあります。

サットサンですね。

問いかければ、どんどん深い答えが得られます。

 

質問者    この機会をお与えくださりありがとうございました。

 

ガンガジ   あなたがここにいてくれたこと、とても嬉しいです。

レイチェルを失った深い悲しみを話してくださり、ありがとうございました。


閉ざされた心には、体験されずにいる深い悲しみがたくさんあります。

壊れた心の中にあります。

 

悲しみは、解放されます。

 

あなたがここにいてくださったことで、どれほどの学びがあったことでしょう。

 

無執着という概念がありますが、

仏教の教えから来たそれが、マインドによって都合良く受け取られると、痛みから解放される方法であると解釈されます。

『あっ。そうか。わかったぞ。執着しなければいいんだな』と、解釈される訳です。

そしてそこに、

無感覚や、距離を置いたり、ということが起こります。

そうなると、人生の痛みも、愛の痛みも、心が引き裂かれるような痛みも、

体験する必要がありません。

そして、

心地よさや、さとりや、コントロールなどという、

いろいろな名前にかこつけて、もっともっと固く心を閉ざすということが起こります。

 

ですから、無執着という考えは捨てて、

あなたの執着を進んで経験してごらんなさい。

執着することの痛みや美しさ味わい、

執着するものが、引きはがされていく悲しみを味わってごらんなさい。

そうすると、あなたは、

決して切り離すことのできない何かに気づくでしょう。

それは、

禁欲的だとか、無感覚だとか、無感情だとか、そのような非人間的な存在ではありません。

自由で、そして意識的に、それらのすべてをふくむものであるのです


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架空の物語
ばら.JPG 

質問者    死について、死の恐怖に関して、

あなたはこれまでずいぶんたくさんの話をされていました。


でも私は、死が怖いとは全く思いません。

私が怖いのは、死にゆく過程です。

私は、たった一人で寂しく死んでいくということが非常に怖いです。


ガンガジ   ええ。よくわかりますよ。


質問者    私のパートナーが、最近、介護老人医療センターに入りました。

そこで私が見たのは、大勢の生きながら死んでいる老人達でした。

大部分が見放された人々のように見えました。

生きているのに死んだも同然の生活を余儀なくされていました。


ガンガジ   生きる屍ですね。


質問者    そうです。

私にとっては、その場所を訪問することさえ苦痛です。


ガンガジ   私たちのほとんどは、目をつぶればすぐに死ねるというふうではありませんね。

健康な身体や、何不自由なく暮らしている自由を失ったり、身体的な苦痛を体験したり、という過程があります。


私がお話している死というのは、身体的な死の瞬間のことではありません。

健康な身体を失うことや、

住み慣れた家を離れ医療センターに入るのも、死です。

あなたにとって一番恐ろしいこと、それがあなたにとっての死です。

それは人それぞれ異なっているかもしれません。


質問者    生きながら見放されて死ぬのなんて嫌です。

耐えられないと思います。


ガンガジ   もちろんそうでしょう。

誰だって幸せな死に方を選びたいでしょう。

 

質問者    恐ろしいです。いったいこの社会は、人々を、、、、


ガンガジ   ええ、ええ。

そうやって、いくらでも、ここで議論することもできますよ。


でもね、議論したり判断するのを止めてみてください。

心のおしゃべりをやめ、恐怖に対して心を開いてみてください。

恐ろしさや、やるせなさ、心細さに心を開いてみてください。


そうしなければならないと言っているのではありません。

何かをしなければならないのではありません。

ただ私が申し上げているのは、今、この瞬間に、あなたには心を開く機会がありますよと、いうことなのです。


あなたにとっての最大の恐怖は、他の人にとっての最大の恐怖とは異なるかもしれません。

でも、それがどのようなものでも、死と出会い、心を開く可能性は、今この瞬間にどなたにもあります。


質問者    (沈黙)


ガンガジ   そうです。自己検証をしてごらんなさい。


恐怖から逃げるのをお止めなさい。


恐怖と戦うのも、

ドラマ化するのも、作り話もお止めなさい。


質問者    (沈黙)


ガンガジ   何か発見がありますか?


質問者    。。。


今この瞬間には、何も起きていません。


ガンガジ   その通りです!

まさにその通り。


質問者    私は、今起きていないことを頭の中で作り上げて、最大の恐怖にして抵抗していました。


ガンガジ   ええ。そうです。


質問者    車にはねられて即死するかもしれないし、


ガンガジ   ええ。その通りなのです。


なんて無駄なことをしていたのでしょうね。


絶対起きてほしくないという架空の物語、

それは今ここにはありません。


あなたは、頭の中のおしゃべりと物語に没頭していました。

そして今この瞬間をまったく無駄にしていました。


それだけです。

単純です。


質問者    どうもありがとうございました。




















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死の恐怖

質問者    私の物語をお話しします。

癌という診断です。
私の物語の中にあります。
死の恐怖がここにあります。
いったいどうなってしまうのか。。。。。

助けてください!

ガンガジ   癌の診断をされたのは何ですか?

質問者    私の身体です。

ガンガジ   そのとおりですね。
身体はいずれは死にます。
癌で死ぬかどうかはわかりませんが、でも、いずれは死にます。
あなたが向き合わなければならないのは、その事実ですね。

本当のところ、
癌の診断は、あなたへのプレゼントなのです。
なぜかと申しますと、
ほとんどの方々が、この事実を無視して人生を過ごすのですから。

質問者    でも、、、、

ガンガジ   これは、神聖な現実です。
神から授かった現実です。
失敗ではありません。

質問者    昨晩、あなたが、幸運についてお話しなさったとき、
私は心の中でクスクスと笑いました。
と申しますのは、
このことに感謝を感じるまでに、かなりの長い時間がかかりましたから。

ガンガジ   それをうかがって、嬉しいわ。
素晴らしいですね。

質問者    本当に感謝を感じるんです。

ガンガジ   そうですね。
もっと先に進んで行けるように、あなたの後押しをしてくれるのです。
いままで抵抗していたものを押しのけてね。

質問者    はい。そのとおりです。

ガンガジ   幼稚な戦略で否定したり、
生半可な作戦で隠してしまうことはできないのです。

『えっ、そんな???
死ぬの???
私、本当に死ぬかもしれないわ』

それ以外の何ものでもないという、
死という現実です。

そして?

質問者    はい、そして、
死にたくないんです。
ここに残りたいのです。
ここが好きです。

ガンガジ   ここってどこでしょう?
あなたがおっしゃる、ここというのは?

質問者    私の人生を愛しているのです。
家族を愛しています。
夫がいて、彼を尊敬しています。

ガンガジ   そうね。
いずれ彼らも、みんな死ぬのですよ。

質問者    子どもたちもいるのです。
   
ガンガジ   そう。みんな死ぬのです。
誰もが皆、いずれは死ぬのです。

実際には、
毎晩眠りにつく時、彼らはみんな死にます。
そして、あなたも死にます。

いかがですか?
ぐっすりと眠るのは、お好きですか?

質問者    ええ。
まったくです。

(爆笑)

ぐっすり眠るのは大好きです。

ガンガジ   あなたの御主人もそこにはいらっしゃらないし、
お子様たちもそうですね。
あなたさえも、そこにはいらっしゃいませんよ。

(笑い)

ガンガジ   あなたが、あなただと思っている、
そのあなたは、そこにはいらっしゃらないわけです。
そうでしょう?

質問者    そうですね。

ガンガジ   そこにあるのはなんでしょう?
深い眠りの中にあるものは?

質問者   そうですね。
私にとっては、疑問に対する答えがそこにあります。  
たくさんの疑問への答えが、そこにあります。
質問を携えて眠りにつきます。そうすると、

ガンガジ   深い眠りの中で、質問はどうなるのですか?

質問者    え〜と。

ガンガジ   熟睡しているときのことをお尋ねしているのです。

質問者    。。。。。   

みんな消えてしまいます。

ガンガジ   そうですね。
答えもでしょう?

(笑い)

質問者    う〜〜ん。。。
そうです。

(笑い)


ガンガジ   ですから、

この体験、
肉体を持って生まれてくるという、意識的な具現化の体験、
また、それに伴って起きる、
誕生が始めにあるように、死は終わりである、という認識というのは、
素晴らしいのですが、
でも、
死は、始まりから終わりの間に、実際は、断続的に起きてもいるのです。
あなたが幸運ならばきっと経験しているであろう、熟睡もそうですし、
日中でさえ、
何の疑問も、何の答えも無く、
あなたも私も、それもあれも、何もない瞬間というのがありますね。
それも死です。
それから、皆が愛する恍 惚 感も死です。

(笑い)

その瞬間、何の緊張もそこには無く、
あなたも消え、ただその瞬間があります。
ただ、愛があり、平安がありますね。

深い睡眠は、平安の中の平安です。
平安の中での休息です。

墓石の中も、
平安の中の平安です。

ですから、
私たちの文化はとっても奇妙ですね。

(笑い)

いろいろな事に関してそうですが、死に関しては特にそうです。

先日、
死を迎えている方と、亡くなる直前に電話でお話をするという大変な幸運に恵まれました。

彼は、 病気との闘いに敗れたということを、
その日医者から宣告されました。
エイズでした。
勇敢に闘われましたし、
生きることを愛していらっしゃいました。
ご自分の人生を愛し、友人たちを愛し、
人生で経験したことを愛しておられましたが、
人生は終わりだ、というメッセージを受け取られました。
できることは何もかもやり、
そして、次の朝がやってくる前に彼は亡くなったのでした。

そして私は、彼が亡くなったあと、
彼の遺体とともに過ごすという幸運にも恵まれました。
それはまさに、平安と愛の放射でした。

皆様がそのような体験をされていたかどうかはわかりませんが、
その時、そこで、彼の灰色の亡骸とともに過ごされた方々の多くが、
何か、知ることのできない、理解を超えた、
『存在の歓び』というようなものがそこにあることを、
感じていらっしゃるように思いました。

もちろん私も、彼に亡くなってほしいと思っていた訳ではありません。
彼の姿が好きでした。

けれどもこのように同じような場で、 避けることのできない、肉体の死と向き合うということについて、彼に 何度もお話をいたしました。
それは、彼だけではなく、あなたの身体にも確実に訪れる死であり、他のすべての方々の身体にもおとずれる死です。

そして彼は、そのことを受け入れたのです。
彼は、死と向かい合わなければなりませんでした。

そして、そうなさったとき、
そこに、無限の祝福があるということを発見なさったのです。

それは、肉体を持って生まれてくるという祝福、つまり具現化の体験
よりも、もっと良いというわけでも、良くないというわけでもないのです。

そのことを、まだ、身体があるうちに体験することは、 素晴らしいチャンスなのです。
これがあなたに与えられたチャンスです。

質問者    ほんの少し、そのように感じたことがあります。

ガンガジ   そうでしょう。
そのようにお見受けします。
外に現れていますもの。

質問者     ほんの少しありますが、
でも、もっとわかりたいです。
もっと欲しいです。

ガンガジ   それでは、
どちらがもっと欲しいのでしょうか?

質問者  もっとよくわかりたいです。
そして、もっと生きたいです。
そういうことです。

ガンガジ   (笑いながら)

ええ。もちろん、もちろんそうですね。
理解できますよ。
自然なことですから。   

では、どうでしょう。
あなたは今この瞬間、
身体はいずれは死んでしまうという事実と進んで向き合うことはできますか?

この身体は、必ず死んでしまいます。
明日かもしれませんし、
10年後、50年後かもしれません。
それがいつなのかは、だれにもわかりませんね。

そのことに進んで向き合うということそのものが、心を開くのです。
後は、好きなだけ病気と闘えばよろしいのです。
ただ、そうなるとき、
あなたは、死と戦っていらっしゃる訳ではなくなります。
あなたは病気と闘っていらっしゃるのです。

おわかりでしょうか。

死はいつでもわたしたちと共にあります。
死は敵ではありません。
死は生です。
生は死です。
死と生は同じです。
誕生と生も同じです。
それらは別々ではありません。

誕生と死は別なものです。
なぜならそれらは、どちらも生の中に生じるからです。
誕生と死は同じあらわれの領域の中にあります。
それらは異なっています。

死がここにあるということに気づくことです。
今、会場の皆様がそうなさっているように、
診断がくだされるのを待つことなく、そのことと出会ってごらんなさい。

でももしも診断がそこにあるのでしたら、
診断を認めることは、死と向き合うための味方になります。
それは身体の味方ではなく、意識の味方です。

あなたがご自分の身体の面倒を見られるのは、まったくかまいません。
あなたの身体、あなたのご主人やお子様たちの身体、そしてこの惑星の身体の面倒を見ながら、死と向き合うのです。

これが、あなたへの力添えです。

質問者    ありがとうございます。

ガンガジ   なにか、ほかにも思い浮かんでくることはおありですか?

質問者    感謝の気持ちです。
ここに居ること、この瞬間に居ることに対して、
とても大きな感謝を感じます。

ガンガジ   かけがえのない瞬間ですね。

質問者    はい。

ガンガジ   かけがえのない瞬間、それがここにありますね。
そして、この瞬間は、過ぎ去って行きます。

でも、今ここにあって、過ぎ去ることのないもの、それは何でしょうか?
それは、この瞬間が過ぎ去っていく中で、出会うことのできるものです。
この瞬間にしがみつかずに、
そこにあるものが何なのかを、見きわめてごらんなさい。
そして、もしもそれに出会うならば、
それはあなたの人生への贈り物となります。
あなたの御主人や、お子様方、そしてあなた御自身への贈り物です。
あなたの御主人やお子様方やあなたを愛した方々、皆様への贈り物になります。

質問者    (胸に手をあてる。)

ガンガジ    そう。
まさに、こころからの敬礼ですね。

質問者    祝福されていると感じます。

ガンガジ   そうです。
あなたは、祝福されていらっしゃいます。

そして、
あなたが祝福されているということをあなた御自身が御存知だというこの祝福は、まったく理解を超えています。
これが恩寵です。
この部屋にいらっしゃるすべての方々が、祝福されています。
計り知れないほどです。
お気づきになっていらっしゃる方も、いらっしゃらない方も、おられることでしょう。
お気づきの方々には、この祝福は、祝福の中の祝福です。
お気づきでない方々はやがて気づかれることでしょう。
『あら、祝福されたんだわ』とお思いになった方には、
とてもよい知らせですね。

(笑い)

皆様がこのように集まってこられると発生する、最高の副産物です。

参加者    この感謝の気持が好きです。
この気持ちの中に居たいです。

ガンガジ   今、その中にいらっしゃらないのですか?

参加者    おります。

(笑い)

ガンガジ   そうでしょう。
私はこの感謝の中で、祝福されている、というふうにおっしゃってもよろしいのですよ。

(笑い)

もうこれから絶対に、感情がわき起こってこないというふうに申しあげているのではありませんよ。
明らかに、どのような感情にしても、
とっておける現実として、心の中に溜め込んでおいたものは、わきおこってくるでしょう。
それなら、
出会いましょう。
出会って、
出会って、
何度でも、出会ってごらんなさい。

参加者    喜びもあります。

ガンガジ   そう。
ものすごい喜びですね。
あなたは、喜びを放射していらっしゃるわ。

参加者

(胸に手をあてる)

ガンガジ   どうなさいましたか?

参加者    あなたが大好きです。愛しています。

(笑い)

ガンガジ   私もそうです。あなたが大好きです。愛していますよ。
大好きです。

参加者    ありがとうございます。

ガンガジ   

これです。

愛は、決して死ぬということはありません。
これが真理です。

後どれだけの時間が残っていようがいまいが、
診断がくだされていようがいまいが、
告げるべきことを告げるのを忘れないでください。
あなたの御主人やお子様たち、ご両親や御友人に、そして敵に、
告げなければならないことを告げるのです。
なぜなら、どんな身体にも、
いつだって急に死んでしまうということがあり得るからです。

(質問者に向き直り)

祝福ですね。

いま実際にここにあるのは、
防御に関する問題です。

防御しないことです。

身体は守り、保護すればよろしいでしょう。
そうすることに、
なんの問題もありません。

でも、もしも、あなたは誰であるのかということに関して混乱が起き、
防御を始めると、
あなたは、真実のあなたを防御し始めます。
そして、ある時、
あなた自身を閉ざしてしまっていたことに気づくでしょう。
誰にも見つからないように防御してしまうのです。

しっかり閉じて、縮こまった拳ですね。

それならば、
開きましょう。

パパジによく同じ質問が寄せられたものでした。それは、
『どのようにして、心を開いたらよいのか、
どのようにして、委ねたらよいのか』という質問です。

パパジは、
『ティシューを握りしめているようなものだよ』と答えました。
握りしめているには、いろいろな筋肉や、神経や、骨を使い、力が必要です。
でも、 握っている拳の力を抜くには、こんなふうにするだけです。

(力を抜いて、見せる。)

もちろん、固く拳を握りしめて動き回っているということに、
御自分自身で気づいておられない方々もいらっしゃいます。
でも、誰かに、
「ねえ、あなた、拳骨を固く握りしめているよ!」と、
指摘されたなら、
きっと御自分の手を見降ろして、
「あれあれ、これは驚いた。知らずに拳骨を握りしめていたぞ」と
お気づきになるかもしれませんね。

(笑い)

そして、ただ一つ、
それほど単純で、簡単なことができずにいる理由は、
簡単なはずがない
という、考えなのです。
『そんなに簡単にできるはずがないよ。』
『簡単なわけがないでしょう。だって、
長い間、こうやって拳を握りしめてきたんだから』、
というような、考えです

こうするだけでいいのです。

(握った手を開いてみせる)

握っているほうが、放すのよりもずっと難しいです。
 

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死と向き合う


ガンガジ   死についてお話ししたいと思います。

死と言っても、いろいろあります。
毎瞬、毎瞬、死があります。
毎晩、眠りにつくのも死ですし、
恋人との関係が終わったときにも、そこに死があります。
子どもが成長し、家を離れるのもひとつの死ですね。

でも、今日ここでお話ししたいのは、肉体的な死についてです。
肉体としての生命の終わりについてです。

特に欧米の文化では、
肉体的な死は、何よりも避けられ、否定され、人の目から隠されます。
そして、そのように扱われているために、死の中にある大きな贈り物、宝物が見過ごされています。

このように申し上げますと、多くの皆様が、
『なぜ死の中に、宝物やプレゼントが隠されているのですか?』
とおっしゃいます。
そして、そのあとの言葉が、こんなふうに続きます。
『死んで無になってしまうなんて、恐ろしくてたまらないですよ。
その中に、いったい何があるというのでしょうか?』

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
先日、サンフランシスコ近郊の湾岸の町で、
長い間、サットサン(真理の集い)を主催していた、ヴァーゴが亡くなりました。

彼が亡くなる数週間前、私は、彼と一緒に過ごしましたが、
それは本当に大きな宝物でありプレゼントでした。
彼が亡くなる前の晩も、
幸運なことに彼と話をすることができました。
そして、亡くなった後も、遺体のとなりに座って過ごしました。
そこでは、死は、抽象的なものではなく、
実際にその場で起きていることでした。
観念ではなく、部屋の中で、死とともに過ごすという現実でした。
死が明らかに近づいてくると、
やがて、肉体としての生命を、そこから連れ去っていったのです。

ところがそのあと、
死の中で失われ、与えられたものの中に、
はっきりと、宝物が残りました。
それは、
そこにいることをいとわず、
彼の苦しみ、肉体的な苦しみや死と共にいようと決意していた私たちにとって、計り知れないほどの恩恵でした。

彼の死が特別だったことは、
彼が、死が近づいていることを知っていて、そのことを否定しなかったことでした。
病気と闘わなかったということではありません。
負けたということを知るまで戦い続けました。
でも、戦いは終わり、翌朝彼は亡くなりました。
すべてを手放しました。

ですから、私が今日ここで皆様にお誘いしているのは、病気とは闘わないという探求ではありません。
病気と闘っている間も、
死は、その時がくればやってくるのだということを知る探求です。
そして、ヴァーゴが出会わなければならなかったように、
そのことにしっかりと出会う受容力を持ち、
出会おうという意志を持った私たちすべてに証明するのです。

これは、ここにいらっしゃる皆様方のどなたにとっても、全く例外なく関わりの深い事柄です。

遺体に、立ち会ったことは他にもありますが、
フォメルドハイドでしたでしょうか?
防腐剤などのような、とにかく何であれ、見た目を良くする薬剤を注射し、
遺体をピンクや、バラ色にするのも、一つの死の形態です。
棺桶の中の、綺麗に飾られた姿を眺め、それから蓋を閉め、土をふりかけますね。

でも、そうではない、死の形もあります。
死んでしまった後、遺体には何の手も加えられません。
ですから、それは蒼白そのものです。
生きていないということは、疑う余地もありません。
私たちが覚えていたいようなヴァーゴに見せかけるための、ほほ紅や口紅をぬったりせず、きわめて生裸な死、という形態です。

しかし、進んでそこに居合わせようと決意をしたとき、
そこには、
絶対的な、否定することのできない美しさと、 永遠に生き生きと生きつづけている、『存在』がありました。
それは、
生きているように、ふくらませたり、手直ししたり、紅をぬったりする必要のない
『存在そのもの』でした。

ヴァーゴは消えていなくなってしまいました。
私たちが知っているヴァーゴという形は、火葬にされ、灰になり消えてしまいました。
ヴァーゴの思い出、
愛すべき人格やいらだちなど、彼のいろいろな状態の思い出はありますが、
ヴァーゴという形はなくなってしまいました。

でも、
その、彼という形に命を吹き込み、彼を動かしている
『存在そのもの』はどうでしょう。
それは、
あなたに命を吹き込み、そしてあなたを動かしている
『存在』とまったく等しいものです。
そしてそれは、ありとあらゆる形を動かしているのです。

その、『存在そのもの』としての真実のあなたに目覚めるためには、
あなたが、御自分で、あなたと呼んでいるその肉体も含めて、
あらゆる形あるものの死と、しっかりと出会おうという心構えでいることです。
そうすれば、それは、歓びに満ちた出会いとなります。

ただし、それはもちろん、喪失の時でもあります。
なぜなら、
私たちにとって大切な、自分自身という身体を失う時かもしれませんし、
私たちが愛している大切な誰かを失う時であるのかもしれないからです。

そこには喪失があります。
でも、そこには、
あらゆるものを動かしていたのは、『真実の存在』であり、神という『存在』であるということに気づく喜びがあります。

くりかえしますが、
死という形のプレゼントが、
『それ』が、ここに在る、ということを、 そして『それ』は、永遠である、ということを証明しているのです。

私は、
夜も、昼も、朝も、たくさんの時間を皆様とともに過ごし、死についてお話ししています。

スピリチュアルな道というのは、死への道と同じです。
それは喪失の道なのです
多くの人々が、何か、得るものを求めて、スピリチュアルな世界にやってこられますが、本当のスピリチュアルな達成というのは、あらゆるものを失うことで得られます。何もかもを喪失するということで得られます。

幸運なことにヴァーゴの場合は、喪失に直面するために、
病気が身体を連れ去っていってしまうのを待つ必要がありませんでした。
恩寵のおかげでしょうか、それとも運が良いのでしょうか、
彼は、この喪失について、
死のずっと前に調べてみることができました。
最後には、病気が彼の身体を連れ去っていってしまいましたが、
彼は、ずっと前にそれを調べてみることができたが故に、自由の中で死を迎えることができました。
平安の中で死ぬことができました。

なにか大切なものを失うという、その喪失の中で、
実は、もっと多くさんのものを得るのです。

私は、 皆様方、お一人お一人に、
今晩、今この瞬間に、死を疑似体験してごらんになってはいかがでしょうかと、お誘いします。

身体は、いずれは死にます。それは誕生とともに約束されています。
そして、
今夜、ここには、
身体が死ぬ前に死に直面してみるという機会が与えられています。
身体に対する執着や、愛着といったものに気づき、
それを死なせてしまうという機会です。

そしてその死の中で、
あなたが本当は何であるのか、という事の真実を知るのです。

これは、ラマナからのプレゼントです。
ラマナが十代のときに、まさに、そのようなことが起こりました。
彼は身体が死ぬ前に死んだのです。
横になると、そのまま、死に直面しました。
そしてその瞬間に、何もかもを失いました。
親も、経歴も、将来も。
未来や 過去さえも失いました。

得ることと失うこと。
そのどちらをも失ったのです。
なにもかもすべてです。

しかし、
得ることと失うことのどちらをも喜んで失ってもいいと、
心の底から、そう決意すると、
『私とは一体誰なのか』ということへの気づきがあらわになります。
それは、ラマナの中で明らかになりました。
そして、あなたの中でも明らかになるでしょう。

彼には
この気づきの後も、長い年月が残されていました。
今晩、もしもあなたが、一瞬、止まり、進んでご自分自身の死を体験してごらんになるならば、あなたはきっと、 少なくとも一瞬か、あるいは、数日、数週間、
それとも、もっと長い間にわたってかもしれませんが、
「『私』が死んでしまったら、『私』の人生はどんなふうなのだろうか」
「そこに『私』がいないときの私の人生とはいったいどのようなものだろうか」
「そこにあるのが『私』の問題ではなくなった時、その問題は一体どのようになるのだろうか」
ということを観察し、見いだすことになるでしょう。
そうなると、あなたは、
残りの人生を、そのことについて、私たちと分かち合うことになるでしょう。
その気づきからやってくる甘い蜜への飢餓感や渇きが、誰の中にもあるからです。

ヴァーゴと彼の死の過程は、私たちへのプレゼントでした。
実際には彼は、死のずっと前にこのプレゼントをくれていました。
なぜなら彼は、ずっと以前に死んでいるからです。
ですから彼の生も死も、どちらもが、
究極的に、相対的に、絶対的に、同じプレゼントなのです。

どのような形でも、可能な限り、私はあなたに力をお貸しいたします。
と申しましても、
実際には、解き放すということに対しては、どのような援助もありません。
私に援助できることといえば、
なぜあなたが、つかんではなさないのか。
そしてそれが、どのような仕組みによるものなのかということを、
あなたご自身で発見することに対してです。
「今はできない」という考えを後押ししているもの何なのか。」
「できることはできるだろうけれど、でももしかしたら、後から必要なこともあるかもしれないから、、、、』
というような、
そのようなことをやめられるように、援助して差し上げたいと思います。

ここにいて、
過去のあなたを、死なせてごらんなさい。
将来のあなたを死なせてごらんなさい。


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