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ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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ガンガジ 私は、パパジに出会うずっと前、瞑想をしていると広がる空間や、自分のことも他人のことも何も考えずに過ごせる時間を、完璧な現実であると感じていました。
パパジに出会った後も、何時間もパパジの前に静かに座っていると、とても祝福された気持ちになりました。
愛する人と一緒の時や自然の中で過ごしている時にも、そのようなことが起きましたが、特に瞑想は、自分を特別な瞬間に置く為の道具のように思えました。
ところがある時パパジに、自由になる為にはどうしたら良いのかと尋ねますと、彼は、「なにもするな」と言ったのです。
「えっ? どういう意味? なにもするなって?
瞑想や、マントラを唱えるというような、ある種の訓練以外のことはするなという意味ですよね?」
その頃の私は、瞑想の他にマントラも熱心に唱えていましたから、
私がそのように尋ねると、パパジは、
「なにもするな。君がやっていることのすべてをやめるんだ」と言いました。
そう指摘されると、見えてきたことがありました。
そういえば私は、瞑想を ”やって” いました。
つまり、瞑想している時、
「今日の瞑想はうまくいったわ。」とか、
「いつもはもう少しちゃんとやっているのに、今日は全然だめだわ。」
という具合に、うまく行ったときは至福で満たされましたが、うまく行かなかったときはそうではありませんでした。
明らかに、自分の本質を得る為に、”私” が何かを ”やっている” のでした。
パパジは、世界中の国々からやってくる、瞑想の達人たちに会っていましたが、
「真実を得る為に重荷を作り出しているだけだから、努力をするのをやめなさい。全部忘れてしまいなさい。」と私に言いました。
「君は何かを ”得よう” としているね。
ということは、本当の自分自身を、本質とは別物だというように考えている訳だよ。本来の自分自身を見いだす為に、何かをしなければならないというのは大間違いだ。」と。
パパジが、身体や精神や感情、そして世界に対する瞑想の効用を否定していたという訳ではありません。
彼は、真理はある特定の状態の中にしか存在しない、というように、私たちが限定してしまっていると指摘したのです。
瞑想の状態にあるときだけ真理が存在する、
と限定すると、私たちは真実を見失ってしまいます。
パパジは時々私たちをインドの市場に連れて行きました。
市場は、臭いや喧噪が強烈で、まったく聖なる場所のようではありません。私は、すぐにでもパパジの部屋に戻り、静かに瞑想をしたいと思ったものでした。
しかし、彼は、
「市場だって、同じなんだよ」と、言うのです。
そして私が、アメリカに帰国するとき、
こんなにも素晴らしい場所を見つけたというのに、もう帰らなければならないなんて、と嘆くと、
パパジは私に、
「どんなことをすれば、本質から逃れることができるのかなあ?」
「本質から離れられるのかどうか、君は自分で見いださなければならないね。」と言いました。
その後私はインドを去り、アメリカへ帰ってきた訳ですが、
自分の家の居間で、インドでの生活や、パパジの前にいつも存在していた恩寵を恋しく感じていました。
ところが、そのような時に私は、
「一体どんなことをすれば 本質から逃れられるのか」と、パパジが語りかけるのを聞いたような気がしました。
彼は、「 ”それ” を得る為には何をすれば良いか。」とは言いませんでした。
「一体どうしたら、それからのがれることができるのだろうか」と言ったのです。
”それ” を ”得る” ためには、”私” が何かをやる必要があります。
あるときは正しい、あるときは間違っているというように、
私がいろいろなことを考えたり、考えないように ”したり”、
行動したり、しないように ”する” ことで ”私” がどんどん養われ肥大していきます。
”私” が何かを ”する” のをやめる
というのは大変に重要なポイントです。
”私” を ”やめる” のです。
私が何かをするのをやめたら、どうなってしまうのかとても不安ですね。
植物人間になるかもしれないと思いました。
私を放棄すると、ちゃんと選挙ができなくなるかもしれない。(笑い)
そんなふうな恐怖がありました。
でも、やってみようという意志がありました。
皆様の中にもそのような意志が見受けられますから、こうやってお話をしているのです。実際にやってみて、どうなるのかを確かめてみていただきたいのです。
静寂な瞑想の中で、もし ”私” が現れているのでしたら、それをやめればいいのです。
この集会が終わり、通常の生活に戻ったときにこそ、自分をやめてみたらいかがでしょう。
ラマナと、パパジの教えの根本は、
変化しないのは何か、を見いだすというものです。
わき起こったり消えたりしないのは何か、
を見いだすのです。
私たちが行っている会話は、いつもそのことについてです。
ここに静かに座っているのは、
”決して変化しない それ” を見いだす為です。
私たち人間は、会話をする動物です。
社会と、そして自分の内でも会話をしています。常にコメントを語っています。
そのこと自体に問題がある訳ではありません。
人間の生活を営む為の脳の機能です。
けれども、会話が現実であると勘違いしてしまうと、不必要な苦しみが生まれます。
ですから、私は皆さんに、実験に参加していただきたいのです。
教義だとか、訓練だとか、私がそう言っているからというのではなく、
”幸せな瞬間も、不幸せな瞬間も、ありとあらゆる瞬間に、自分をやめるのは可能であるかどうか” という実験です。
自分が現れるのをやめるのは可能であるかどうかを、ご自分で発見してください。
昔、あるグループのワークショップに参加したとき、特殊な能力や力を養う訓練や、考え方の練習をしたことがありましたが、
たった今、ここでは、それらのすべてを放棄し、自分をやめる実験をしてごらんになっていただきたいのです。
実験的にやってみていただきたいのです。
人間には、自然に好奇心がそなわっていますが、私たちはそれを否定するように育つことが多いですね。
特定の何かに従い、ある特別の文化や宗教の教えをひたすら信じ、そのようにして私たちは縛られます。
でも、縛られる必要などありません。
自由はもっと深いところに存在します。自由は、あらゆるすべての瞬間に、
”今ここ”にあります。
やってみようという意志を皆と分かち合うことは、創造以上に大きな、新鮮な発見につながる可能性があります。
しかしそれがどれほど大きいのかと想像することすらやめ、人間として生まれたが故に備わった力を一時的に凍結し、検証をするのです。
検証とは、問いかけです。
今日の私からの皆様への問いかけは、
”私” を引き起こす為に、一体どんなことをやっているのか、というものです。
たったいま、”私” をやめたならどうなるのか。
本来の私とは何なのか。
それを知るには一瞬で十分です。
いかがでしょう。
やってみてごらんなさい。
私はここにいて、教義をお伝えしているわけではありません。
皆と出会い、ほんのちょっと格闘していますが(笑い)
挑戦してみるようにと促しているのです。
あなたの心の内側で何が起きていようが、外側でどのような出来事が起きていようが、常に変わることなく、今ここに ”在る” のは何かを、見いだしていただきたいのです。
自由で、いきいきとして、愛に満ちた、”それ” を見いだしていただきたいのです。
お伝えしているのは素晴らしいお知らせなのです。
あなたの人生は、命の源から離れてはいません。
私という感覚は、すべての生き物の中にありますが、命の源から離れている訳ではありません。
私の話していることは抽象的なことではありません。
あなたの人生をあなたがどう生きるかについてお話ししているのです。
そしてあなたの体験を、皆と分かち合ってください。
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