自由に生きる、とは | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
自由に生きる、とは


ガンガジ   昨日、このような質問をなさった方がおられました。

『あなたがおっしゃっていることが本当であるのなら、虐待的な関係の結婚を私はそのまま続けるべきだったのですよね。』と。

もちろん私は彼女に、
私がお話ししたのはそのようなことではありません。と申しあげました。

大切なポイントですので、もう一度ここでお話しいたしましょう。

私たちは、話を聞いたときに、自分という概念の中で解釈し理解するわけですが、
私がお話ししていることを、たとえ皆様がどのようにお聞きになったとしても、
私は、

『人生のできごとに、皆様がどのように対処したらよいか』

という方法を説いているのではありません。
そうではなく、方法や処方箋を脇においておくようにと提案しているのです。

それは実際には、あなたの中に息づいている、自由や、明晰さの源の発見です。

あなたがそれを発見なされば、 誰かがあなたに、そうするべきだと言ったという理由からではなく、 虐待的結婚を続けるか否かということの答えが、あなたの本質の明晰さの中から自然とあらわになるでしょう。

これが、自由という意味です。

一般的な処方箋は、虐待的な結婚をやめるということでしょう。
でも私は、そのようにも申し上げないでしょう。
ひょっとすると虐待的結婚が、適切であることもあるかもしれません。

正しい答えなど、一体、誰にわかるのでしょう?
私たちには、知る由もありません。

もちろん、身体的な危険があるのでしたらその場から立ち去るべきです。

けれども、虐待という言葉そのものには、大変に広い解釈があります。
例えば、買い物をしていたあなたに、誰かが大変に失礼なことを言ったとします。これを、虐待と表現なさる方がいらっしゃるかもしれません。
また、両親にこどもが5人もいなければ、私はもっと注目されて育っただろうに、というように、関心を得られなかったことを虐待と表現する方もいらっしゃるかもしれません。

このように虐待という言葉は、被害者や、生存者という言葉と同じように、安易に使われています。

そして私たちは、いかに自分が虐待され、被害者であり、その生存者であるかという公式を作り上げます。その結果、自分自身にレッテルを貼付け、苦しみを背負います。

私はそうなのだ、というふうに認識をし始め、
教会やスピリチュアルな先生、テレビの悩み相談、などというような援助団体が語っている、『どのように生きたらいいか』という処方箋に従って生きるようになります。

誰かが教えてくれる『どうすればいいか』に従って生きるのでは、まったくこどもと同じです。

ですから、成長なさることです。
そして一体どうしたらいいのかを、誰にも言ってもらわないことです。

そうしたとき、あなたは、あなたの本質である明晰さ、静寂な意識へと引き戻されます。そこには、イエスがそう言ったとか、ガンガジがそうしろと言ったとか、ラマナがそう言った、というような処方箋はありません。

私があなたを静けさへと導く目的はそれです。

するべきだ、するべきではない、などというおしゃべりの根底には、いつも必ず、静寂が在ります。
その静寂はあなたご自身の『開かれた意識』です。
この静寂は、それ自身に目覚めている、あなたの本質です。

すべきであるとか、すべきではないということとは関係のない、そして、すべきである、すべきでないということをも包み込んでいる、愛そのものです。

そうすべきであるということや、そうすべきではないということは、この意識の中に生まれるのです。時には必要なことでしょう。そして全く必要がないこともあるでしょう。
すべきだとか、すべきでないということが、すべて間違っていると申し上げている訳ではありません。

私たちは、幼稚園や小学校のときから、何かに従うように訓練されてきました。
そしてスピリチュアルな生き方の中でも、同じようなことをしています。
誰かの、そうするべきだという言葉に従っています。

全く必要のない重荷です。

昨晩お話しいたしましたが、
私たちの脳には、
理由づけたり、計算したり、分析したり、定義づけたり、という半球があります。

大変にパワフルで、まさに人間の側面としての脳です。

けれども、この脳の左半球は、もう片方の脳半球に、瞬時にしてゆだね、任せることができます。
脳の右半球は、解放的であり、空の叡智です。定義づけたり意味づけることができません。

左半球の見地からすれば、これは大変にショッキングなことです。
なぜなら、私たちは、幼い頃から、ものごとをうまくこなすことをトレーニングされてきているからです。

それはたしかに大変に素晴らしい訓練です。
でも、それが、最終的なものではありません。
そこには何かが欠けています。
私たちは決してこれだけでは満たされません。

人生をうまくこなすのは知性です。
それなのに、何かが欠けているのです。

そして、
考えたり、定義づけたり、憶測したりというような、理論的で計算的なマインドを脇に置いた時、そこに全く異なった側面があるということに単純に気づく一瞬があります。
あなたはそれを瞑想とおっしゃるのかもしれませんし、リトリートとおっしゃるのかもしれませんが、瞬時にして発見することができます。

その部分は、 宇宙全体に共鳴しています。
言葉も、文脈も、文法もなく、宇宙全体と対話しています。

直接的な体験です。

このゆだねの中で、あなたは理論的なマインドを使いながら問いかけることができます。

その問いかけとは、
『私がこの人生において本当に求めているのは何だろうか.』
というものかもしれませんし、
『私とは一体誰なのか.』
というものかもしれません。

その時あなたは、
定義づけたり、計算をしたりというあなたの脳に、その質問をしているのではありません。
広大で、無限で、あらゆるすべてとつながっている脳の側面に質問をしているのです。

そうすると、自然に、理論的な部分と広大無限な部分の『源』につながります。

陰と陽ですね。
陰と陽が生まれる以前である、あなたの本質です。

陰と陽だとかマインドの極性と言ってもいいですが、
それは、論理的マインドと、開放的マインドです。
マインドと、ハートと呼ばれることもあります。
どのように呼ばれていてもかまいません。

この直接的体験はあなたのものです。

実際、あなたには、一日に何度も、 今ここという空間の体験があります。
ごく日常的に、頻繁にそのようなことは起きています。

けれども私たちは、20分間の瞑想や、一時間の礼拝や集会の時間をのぞいては、理論づけるということを、何もかもすべての上位に位置づけている社会に住んでいます。
その結果、広大な静寂や、平安への誘いを見過ごしています。

それは、何も目標やゴールがなく、自分を優れているとか、劣っているというように定義づけることもなく、どのくらい獲得したかということを計ることもない静寂です。

ですから、ただ止まり、そのままでいてください。

私はあなたに、世間から身を隠し隠遁生活を送るようにと申し上げているのではありません。何もかもから身を引き、聖者になるようにと申し上げているのではありません。

『ただ静寂でいる』というこの誘いの瞬間が、あなたの人生の毎日の中の、毎瞬毎瞬にあるということに気づいていただきたいのです。

その気づきの中で、あなたは一瞬にして、ご自身がその静寂であり、平安そのものであることを発見なさるでしょう。

あなたのランクはどのあたりなのか、
あなたが悟っている度合い、または悟っていない度合いがどのへんであるのか、などということを知る必要もなく、
あなたご自身が平安そのものであることを発見なさるでしょう。

多くの方々が、死の床でそれを発見されます。
あれやこれやを得、それを失わずにいるために、そうするべきだ、べきではないといろいろなことをやっていらしたわけですが、そのようなことをいっさいやめゆだねた死の床で、平安を発見されます。
でも、死の床まで待つことはありませんね。
たった今、この瞬間に、見つけることができます。

そのことを発見なさると、
あなたは、 実際には広大で一つにつながったマインドから情報を得ながら、
理性的なマインドで生きるようになるでしょう。

そうなったとき、あなたの理性は創造的です。
自由です。

そうすべきだとか、すべきではないと、誰かが言った言葉や、
すべきだ、すべきではない、ああすべきではなかった、という、あなたご自身の言葉で定義づけられていないからです。

ご自分自身を『もの』のように定義づける必要はありません。

私たちは、
『私』という定義が、もっと良い『私』や、もっと素晴らしい『私』という定義になるように希望を持っています。そしてそうなれば平安が得られ、静かに休息でき、愛されるだろう、という認識を持っています。

でも、平安も、愛も、今、もうここにあります。
瞬間的に、今ここにそれがあることが発見できます。

あなたが、あなたご自身を定義づけたとたんに、
その定義によって、あなたの注意は、今ここにある『それ』から遠ざかってしまうことがおわかりになるでしょう。

今ここにある『それ』は、定義などとは関わりがありません。

私は皆さんに、自我を排除せよとか、抹殺しければならないとは申し上げてはいません。これは殺しの講座ではありません。

自我、それは定義づける側面である脳ですが、
それによって全く左右されることのないのは何なのか、
もう既に自由であるのは何なのか、ということへの単純な気づきのことをお話ししているのです。

そしてその部分に注意を向け、それを受け入れ、ゆだねたなら、そのもっと奥にあるのが何かにお気づきになるでしょう。

そうなるとあなたは、とても驚くような人生を生き始めるでしょう。
あなたご自身にも大変な驚きでしょうし、あなたの周りの人々にも驚きかもしれません。
思ってもいなかったようなことが起き、あなたの周りが、揺さぶられるかもしれません。

今回の大統領選挙がそうでした。
民主党だとか共和党だとかというような議論を超えて、
アメリカにとっても世界にとっても、今回起きたことは非常に大きな出来事です。
私たちの意識の中で、絶対に起きるはずのないことが起きたのです。

集合意識においてこのようなことが起きるのですから、
個人の意識においては、可能性はもっともっと大きいのです。

あなたの心の中のおしゃべり、つまり、あなたが学んできたことや、あなたの先生に言われたこと、あなたの両親、テレビの番組、政治、教会、スピリチュアルリーディング、などをもとにして寄せ集つめた、あなたとは誰か、ということに対する定義付けをやめてご覧なさい。

異端ですね。

ただ単純に止めるのです。
そうすれば、いまここにある『それ』に気づきます。

それに、名前を付けないでください。
セルフと名付ければ、自我というふうにとらえるかもしれません。

定義づけないでください。
定義づける必要がないのです。

ああなるほど、それは目覚めだな、悟りのことだな、というように定義づけないでください。悟っていると定義づけると、悟っていないという定義が生まれます。
ですから、定義づけず、何もせず、ただそのままにしておいてください。

そうしたときにどうなるか、ご覧になってください。

あなたが、生まれなからにして自然に持っている脳の本質が、あらゆるすべての側面に対して自由に解放されます。

真の対話は、そこからやってきます。
そうなれば、言語を使用しても、理屈や理論を用いても全く問題がありません。

よくご覧になれば、
実際は大変に論理的です。
大変に科学的です。
私たちは皆、つながっています。
私たちの身体もマインドも大変に空間的です。
私たち感情は単なる波のパターンです。

理屈ではなく、体験的にそうです。

そのことが発見されると、あなたの人生は、本や地図にそって生きるのではなくなります。
生き生きとして、予測がつきません。
結果がどうなるのか、あなたにはわかりません。
私たちの誰も、結果がどうなるかなど知りません。
でも、そのことが意識的にわかると、ゆだねて生きるようになります。

加速されます。

もちろん、痛みがあったり、不幸せや悲しみや怒りを感じるときがあるでしょう。
でも、だからといって、それが一体どうなのでしょう。

もしあなたがご自分を、そのような、通り過ぎていくものによって定義づけていなければ、何が通り過ぎていこうが、すべてが喜びとともに迎え入れられることでしょう。
たとえ喜びとともに迎え入れることができないようなことが通りすぎていったとしてもです。

ですから私は、この誤解に関して説明をしなければならないのです。

初めにお話ししたことをもう一度申し上げます。

たとえあなたが、私がお話ししていることをどのようにお聞きになったとしても、
私は、人生をどのように生きるかということに対する処方箋を差し上げてはいません。
私がお話ししているのは、
あなたはあらゆる処方箋から解放されて生きることができるということです。

あらゆる聖人たちが皆、処方箋を手放し自由に生きました。
ブッダや、イエスもそうでした。

あなたにも可能です。
私たちのような普通の人々にそれが可能です。
100年前、50年前なら、このような可能性があるなどとは、だれも、夢にも思わなかったでしょう。
でも、今はそれが絶対的に可能です。

なんと素晴らしいのでしょう。

ですからここでのヴィジランスとは、
理論的な脳が、いかに処方箋を作ってしまうかに気づくことです。
理論的な脳は、情報を集めて、それを定義付け、ゴールを定め、そこに向かい走り始めます。
ですから、そのことに気づいてください。

気づいてみるだけなら、そこには何の問題ありません。
それを見て、ただ単純に開くのです。

一歩下がって、
手放し、
発見してください。

いったいここにあるのは何だろう。
混乱のさなかにここにある平安、それは何だろう。

私とは何だろう。

そのことを発見なさってください。

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