みなさま、こんにちは
DVD『死と向き合う』に日本語字幕をつけました。
ガンガジ基金のホームページから、2017/3/1現在、3つの対話がご覧になれます。
gangaji.org を開くと、一番上の右側に、小さい文字で international と表示があります。そこをクリックして、日本語を選ぶとご覧になれます。
他の対話はまだご覧いただけませんが、いずれ、DVDとして販売されるか又は、同様にホームページ上でご覧になることができるようになりますので、お待ちください。
Keikoさんの字幕映像編集のご協力に感謝します。
はるか
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質問者 美しい娘、レイチェルを交通事故で失いました。
あなたにお会いするまであまり泣いていなかったのですが、
ここでは、あなたが部屋に入っていらっしゃるたびに泣いています。
ガンガジ たくさん涙を流されているのでしょうね。
質問者 今朝もこの部屋で泣きました。
本当にたくさん泣いたので、ちり紙を持っていたら良かったと思いました。
でも、ある時点で、もう手放しました。
あるがままにまかせました。
すると、私にとっては重要だったいろいろなことが、私の顔を伝わって流れていったことに気づきました。
手放せて良かった。。。
レイチェルの死をめぐっては、たくさんの物語がありました。
ただ、
あなたが以前、
「物語の中での考えや感情を、『本当の私』と同一視しないように。それらは『真実の私』ではないのだから」
と、おっしゃっていたのを覚えていたのです。
それで、物語を見つけるたびに、それを手放すという選択をしています。
そうすると、即座に苦しみが終わります。
苦しくないから泣いていない。という物語がありました。
もちろん、まだまだたくさんの物語があるのですが、
あまり泣いていなかったのは、
忙しくて泣く暇がない、という物語がそこにあったからだと思いました。
レイチェルが死んでしまったので、
脳性麻痺や、いろいろな医学的な問題を抱える3歳の孫を育てているのですが、そのようなわけで、私には、忙しいという正当な理由がありました。
やることがたくさんあるのです。
でも、今日は、
『真実を語りなさい』とあなたがおっしゃるのを、何度も耳にしました。
そして、自分に真実を語った時、
レイチェルがもういない、という事実とともにいることを避ける為に、忙しくしているのだと、気づいたのです。
忙しく過ごすことを自分で選択していたのです。
彼女はもうここにはいません。
娘に会いたくて、何もかもすべてが彼女を思い起こさせます。
でも、私はただ、その事実とともにいたいです。
ガンガジ そうですね。そこが、あなたが居るべきところですね。
質問者 そこにいることを避けて、忙しく動き回ったり、いろいろなことをしていた理由には、恐れがかかわっているのだと思いました。
もしも、感情をそのままにしておいたら、自分をコントロールできなくなってしまうかもしれないという恐れです。
ガンガジ そうですね。
質問者 もし自分をコントロールできなくなってしまったら、どうやって孫のエデンの世話をしたらいいのかしら。
やらなければいけないことを、いったいどうやってこなしていけばいいのかしら。でも、もうすぐガンガジの修養会があるから、あそこでならコントロールできなくなっても大丈夫だわと。
そんなふうに、思っていたのだと思います。
(笑い)
そして今、ここにいるわけですが、
これまで、人生のすべてを傾けて忙しく動き回り、直面することを避けてきたそれは、自分で仕切ったりコントロールすることができないものなのだ、ということに気づきました。
ガンガジ そのとおりですね。
コントロールのまねごとですね。
質問者 コントロールするのはもう嫌です。明け渡したいです。
ガンガジ まねごとは必要ありませんね。
素晴らしいですね。
参加者 それで、ほんとうにもうたくさん泣いたんです。
そうしたら、すっきりしました。
とても気持ちがよかった。
ガンガジ 亡くした子どもへの深い悲しみは美しいです。
質問者 そしてもう一つ、
今朝ここに座っていて気づいたのは、感謝の気持ちです。
レイチェルに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。
レイチェルは、とってもすばらしい人でした。
いつもそうでしたし、今もそうです。
そうして彼女と一緒にいることのできた23年間に、
それから、彼女の母親であるという名誉と、
そのような深いレベルで、彼女のことを知ることができたことに、心からの感謝を感じるのです。
ガンガジ 幸運ですね。
質問者 初め、私の物語の中には、
孫が母親の死から立ち直れないのではないかというものがありました。
でも孫は3歳で、喜びそのものです。
母親が、もうそこにはいないことを知っているのですが、
いつも母親に話しかけています。
彼女の存在をとても強く感じているのだと思います。
母親の愛を感じ、彼女を愛しているのです。
そのことが、私には、ある意味とてもうらやましいのです。
私もそんなふうに感じてみたい。
レイチェルがまだそこにいるように感じたい。
娘がそこにいるのだと知っていて、そんなふうに感じたい。
そして、思ったのは、
このような切望は、いつも、誰の中にもある、あの切望と同じだということです。
ガンガジ そのとおりですね。
質問者 真我への切望だと思いました。
そして、ほんの一瞬ですが、『本当の私』がわかった瞬間がありました。
レイチェルと繋がったのです。
レイチェルと一緒でした。
ガンガジ そうです。同じです。
その切望は、あなたの味方です。
忙しいからと、どこかに追いやってしまうものではありません。
あなたを預けてしまえる相手です。
切望の中に飛び込み、任せてしまいましょう
質問者 この切望は、真理です。
ガンガジ そうですね。
真理への道、というふうに申し上げたくないのは、
もっともっと近いからです。
真理という歌が、それ自身に呼びかけているとでも申しましょうか。
けれど、私たちはずっと恐れてきました。
自分でコントロールすることができなくなるからです。
その歌の中に飛び込むと、自分で仕切っているのだという思い込みのすべてを失います。
質問者 でも気が軽くなります。
ガンガジ そうですね。
質問者 もう、忙しく動き回っていなくてもいいのです。
ガンガジ そのとおりですね。
それは、あなたのお孫さんにとっても、素晴らしいことですね。
これからは、もっと深いところで、お孫さんに関われますね。
質問者 私の中に、この子を育てるのに私は適任ではない、という物語もあり、それで仕事に没頭してめまぐるしく動き回っていたのですけれど、
なんて馬鹿だったのでしょう。
この子と一緒にいる為に必要なのは、ただ愛だけです。
ガンガジ そのとおりですね。
質問者 その物語がわたしを彼女から遠ざけていました。
ガンガジ とても明確ですね。
参加者 修養会が始まって最初の日だというのに、
この先、どのようなことが起きるのか、本当に楽しみです。
先週、サットサンで、あなたをお見かけしましたが、
その時は、あなたがきっと私の心の痛みを取り除いてくださるのだと思い、期待していました。
ガンガジ あらあら、そうじゃないのです。
もしも私が、自分の仕事をちゃんとやっているのだとすれば、
あなたたちが痛みから逃げられないように増幅させているのです。
なぜかと申しますと、
真実をあらわにしてくれるのは、ほかならぬ、痛みだからです。
私たちは人生のすべてを、
痛みをコントロールしたり避けるために、または、痛みから救われようと過ごしています。
でも、そうではないのです。
痛みにしっかりと出会い、避けることを止めて進んで体験するならば、
それは、ラマナが死と出会ったのとまったく同じです。
単に、あなた特有の、あなた用の脚色であるという違いだけです。
質問者 親しい友人が、私にこんなことを言いました。
「つかんでいるものを手放し、心をただ壊れるままにまかせていれば、そこから、本当のあなたが現れる」って。
ガンガジ それは素晴らしい友ね。
私たちは皆、心が壊れるままにまかせるということがとても怖いですね。
心が痛むたびにそこには亀裂が生じ、
そうして、何度も何度も、繰り返し心が壊れるままに任せると、
亀裂はどんどん、どんどん大きくなります。
でも、
亀裂はただの空間にすぎないのです。
あなたの真我、真実のあなた、という空間です。
ほとんどの人々は、痛みを取り除く為にスピリチュアルな探求に加わりまが、もっともなことです。
なぜなら、痛みがなくなれば幸せになるというふうに、みな思い込んでいるからです。
でも、スピリチュアルな道をずっと先までやってくると、
それは、一つの痛みを他の痛みにすりかえただけだったということが見えてきます。あるいは、痛みを覆い隠したり、固めてしまったり、しびれさせて感じないようにするのが得意になっただけだとわかります。
痛みにはしっかり向き合わなければいけません。
そうすればわかります。
向き合うまでは、これは単なる知識でしかありません。
単なる記憶している言葉であり、見識であり、
他の人の過ちを指摘して正したりするような、そういうたぐいのものでしかありません。
でも、痛みとしっかり出会うとき、あなたは、切望に出会い、
そして本当のあなたに出会います。
質問者 あなたが、さきほど手紙をお読みになった時気づいたことがあります。それは、問いかければ答えが与えられのだということでした。答えを探すことを止めて、ただ問いかけるのですね。
ガンガジ そのとおりです。
本当の問いかけというのはそのようなものです。
あなたがそうあってほしいという答えを携えながら問うのではないのです。
ただ単に心を開くと、答えはもうそこにあります。
サットサンですね。
問いかければ、どんどん深い答えが得られます。
質問者 この機会をお与えくださりありがとうございました。
ガンガジ あなたがここにいてくれたこと、とても嬉しいです。
レイチェルを失った深い悲しみを話してくださり、ありがとうございました。
閉ざされた心には、体験されずにいる深い悲しみがたくさんあります。
壊れた心の中にあります。
悲しみは、解放されます。
あなたがここにいてくださったことで、どれほどの学びがあったことでしょう。
無執着という概念がありますが、
仏教の教えから来たそれが、マインドによって都合良く受け取られると、痛みから解放される方法であると解釈されます。
『あっ。そうか。わかったぞ。執着しなければいいんだな』と、解釈される訳です。
そしてそこに、
無感覚や、距離を置いたり、ということが起こります。
そうなると、人生の痛みも、愛の痛みも、心が引き裂かれるような痛みも、
体験する必要がありません。
そして、
心地よさや、さとりや、コントロールなどという、
いろいろな名前にかこつけて、もっともっと固く心を閉ざすということが起こります。
ですから、無執着という考えは捨てて、
あなたの執着を進んで経験してごらんなさい。
執着することの痛みや美しさ味わい、
執着するものが、引きはがされていく悲しみを味わってごらんなさい。
そうすると、あなたは、
決して切り離すことのできない何かに気づくでしょう。
それは、
禁欲的だとか、無感覚だとか、無感情だとか、そのような非人間的な存在ではありません。
自由で、そして意識的に、それらのすべてをふくむものであるのです
ガンガジ 私は、パパジに出会うずっと前、瞑想をしていると広がる空間や、自分のことも他人のことも何も考えずに過ごせる時間を、完璧な現実であると感じていました。
パパジに出会った後も、何時間もパパジの前に静かに座っていると、とても祝福された気持ちになりました。
愛する人と一緒の時や自然の中で過ごしている時にも、そのようなことが起きましたが、特に瞑想は、自分を特別な瞬間に置く為の道具のように思えました。
ところがある時パパジに、自由になる為にはどうしたら良いのかと尋ねますと、彼は、「なにもするな」と言ったのです。
「えっ? どういう意味? なにもするなって?
瞑想や、マントラを唱えるというような、ある種の訓練以外のことはするなという意味ですよね?」
その頃の私は、瞑想の他にマントラも熱心に唱えていましたから、
私がそのように尋ねると、パパジは、
「なにもするな。君がやっていることのすべてをやめるんだ」と言いました。
そう指摘されると、見えてきたことがありました。
そういえば私は、瞑想を ”やって” いました。
つまり、瞑想している時、
「今日の瞑想はうまくいったわ。」とか、
「いつもはもう少しちゃんとやっているのに、今日は全然だめだわ。」
という具合に、うまく行ったときは至福で満たされましたが、うまく行かなかったときはそうではありませんでした。
明らかに、自分の本質を得る為に、”私” が何かを ”やっている” のでした。
パパジは、世界中の国々からやってくる、瞑想の達人たちに会っていましたが、
「真実を得る為に重荷を作り出しているだけだから、努力をするのをやめなさい。全部忘れてしまいなさい。」と私に言いました。
「君は何かを ”得よう” としているね。
ということは、本当の自分自身を、本質とは別物だというように考えている訳だよ。本来の自分自身を見いだす為に、何かをしなければならないというのは大間違いだ。」と。
パパジが、身体や精神や感情、そして世界に対する瞑想の効用を否定していたという訳ではありません。
彼は、真理はある特定の状態の中にしか存在しない、というように、私たちが限定してしまっていると指摘したのです。
瞑想の状態にあるときだけ真理が存在する、
と限定すると、私たちは真実を見失ってしまいます。
パパジは時々私たちをインドの市場に連れて行きました。
市場は、臭いや喧噪が強烈で、まったく聖なる場所のようではありません。私は、すぐにでもパパジの部屋に戻り、静かに瞑想をしたいと思ったものでした。
しかし、彼は、
「市場だって、同じなんだよ」と、言うのです。
そして私が、アメリカに帰国するとき、
こんなにも素晴らしい場所を見つけたというのに、もう帰らなければならないなんて、と嘆くと、
パパジは私に、
「どんなことをすれば、本質から逃れることができるのかなあ?」
「本質から離れられるのかどうか、君は自分で見いださなければならないね。」と言いました。
その後私はインドを去り、アメリカへ帰ってきた訳ですが、
自分の家の居間で、インドでの生活や、パパジの前にいつも存在していた恩寵を恋しく感じていました。
ところが、そのような時に私は、
「一体どんなことをすれば 本質から逃れられるのか」と、パパジが語りかけるのを聞いたような気がしました。
彼は、「 ”それ” を得る為には何をすれば良いか。」とは言いませんでした。
「一体どうしたら、それからのがれることができるのだろうか」と言ったのです。
”それ” を ”得る” ためには、”私” が何かをやる必要があります。
あるときは正しい、あるときは間違っているというように、
私がいろいろなことを考えたり、考えないように ”したり”、
行動したり、しないように ”する” ことで ”私” がどんどん養われ肥大していきます。
”私” が何かを ”する” のをやめる
というのは大変に重要なポイントです。
”私” を ”やめる” のです。
私が何かをするのをやめたら、どうなってしまうのかとても不安ですね。
植物人間になるかもしれないと思いました。
私を放棄すると、ちゃんと選挙ができなくなるかもしれない。(笑い)
そんなふうな恐怖がありました。
でも、やってみようという意志がありました。
皆様の中にもそのような意志が見受けられますから、こうやってお話をしているのです。実際にやってみて、どうなるのかを確かめてみていただきたいのです。
静寂な瞑想の中で、もし ”私” が現れているのでしたら、それをやめればいいのです。
この集会が終わり、通常の生活に戻ったときにこそ、自分をやめてみたらいかがでしょう。
ラマナと、パパジの教えの根本は、
変化しないのは何か、を見いだすというものです。
わき起こったり消えたりしないのは何か、
を見いだすのです。
私たちが行っている会話は、いつもそのことについてです。
ここに静かに座っているのは、
”決して変化しない それ” を見いだす為です。
私たち人間は、会話をする動物です。
社会と、そして自分の内でも会話をしています。常にコメントを語っています。
そのこと自体に問題がある訳ではありません。
人間の生活を営む為の脳の機能です。
けれども、会話が現実であると勘違いしてしまうと、不必要な苦しみが生まれます。
ですから、私は皆さんに、実験に参加していただきたいのです。
教義だとか、訓練だとか、私がそう言っているからというのではなく、
”幸せな瞬間も、不幸せな瞬間も、ありとあらゆる瞬間に、自分をやめるのは可能であるかどうか” という実験です。
自分が現れるのをやめるのは可能であるかどうかを、ご自分で発見してください。
昔、あるグループのワークショップに参加したとき、特殊な能力や力を養う訓練や、考え方の練習をしたことがありましたが、
たった今、ここでは、それらのすべてを放棄し、自分をやめる実験をしてごらんになっていただきたいのです。
実験的にやってみていただきたいのです。
人間には、自然に好奇心がそなわっていますが、私たちはそれを否定するように育つことが多いですね。
特定の何かに従い、ある特別の文化や宗教の教えをひたすら信じ、そのようにして私たちは縛られます。
でも、縛られる必要などありません。
自由はもっと深いところに存在します。自由は、あらゆるすべての瞬間に、
”今ここ”にあります。
やってみようという意志を皆と分かち合うことは、創造以上に大きな、新鮮な発見につながる可能性があります。
しかしそれがどれほど大きいのかと想像することすらやめ、人間として生まれたが故に備わった力を一時的に凍結し、検証をするのです。
検証とは、問いかけです。
今日の私からの皆様への問いかけは、
”私” を引き起こす為に、一体どんなことをやっているのか、というものです。
たったいま、”私” をやめたならどうなるのか。
本来の私とは何なのか。
それを知るには一瞬で十分です。
いかがでしょう。
やってみてごらんなさい。
私はここにいて、教義をお伝えしているわけではありません。
皆と出会い、ほんのちょっと格闘していますが(笑い)
挑戦してみるようにと促しているのです。
あなたの心の内側で何が起きていようが、外側でどのような出来事が起きていようが、常に変わることなく、今ここに ”在る” のは何かを、見いだしていただきたいのです。
自由で、いきいきとして、愛に満ちた、”それ” を見いだしていただきたいのです。
お伝えしているのは素晴らしいお知らせなのです。
あなたの人生は、命の源から離れてはいません。
私という感覚は、すべての生き物の中にありますが、命の源から離れている訳ではありません。
私の話していることは抽象的なことではありません。
あなたの人生をあなたがどう生きるかについてお話ししているのです。
そしてあなたの体験を、皆と分かち合ってください。
あなたはこれまでずいぶんたくさんの話をされていました。
でも私は、死が怖いとは全く思いません。
私が怖いのは、死にゆく過程です。
私は、たった一人で寂しく死んでいくということが非常に怖いです。
ガンガジ ええ。よくわかりますよ。
質問者 私のパートナーが、最近、介護老人医療センターに入りました。
そこで私が見たのは、大勢の生きながら死んでいる老人達でした。
大部分が見放された人々のように見えました。
生きているのに死んだも同然の生活を余儀なくされていました。
ガンガジ 生きる屍ですね。
質問者 そうです。
私にとっては、その場所を訪問することさえ苦痛です。
ガンガジ 私たちのほとんどは、目をつぶればすぐに死ねるというふうではありませんね。
健康な身体や、何不自由なく暮らしている自由を失ったり、身体的な苦痛を体験したり、という過程があります。
私がお話している死というのは、身体的な死の瞬間のことではありません。
健康な身体を失うことや、
住み慣れた家を離れ医療センターに入るのも、死です。
あなたにとって一番恐ろしいこと、それがあなたにとっての死です。
それは人それぞれ異なっているかもしれません。
質問者 生きながら見放されて死ぬのなんて嫌です。
耐えられないと思います。
ガンガジ もちろんそうでしょう。
誰だって幸せな死に方を選びたいでしょう。
質問者 恐ろしいです。いったいこの社会は、人々を、、、、
ガンガジ ええ、ええ。
そうやって、いくらでも、ここで議論することもできますよ。
でもね、議論したり判断するのを止めてみてください。
心のおしゃべりをやめ、恐怖に対して心を開いてみてください。
恐ろしさや、やるせなさ、心細さに心を開いてみてください。
そうしなければならないと言っているのではありません。
何かをしなければならないのではありません。
ただ私が申し上げているのは、今、この瞬間に、あなたには心を開く機会がありますよと、いうことなのです。
あなたにとっての最大の恐怖は、他の人にとっての最大の恐怖とは異なるかもしれません。
でも、それがどのようなものでも、死と出会い、心を開く可能性は、今この瞬間にどなたにもあります。
質問者 (沈黙)
ガンガジ そうです。自己検証をしてごらんなさい。
恐怖から逃げるのをお止めなさい。
恐怖と戦うのも、
ドラマ化するのも、作り話もお止めなさい。
質問者 (沈黙)
ガンガジ 何か発見がありますか?
質問者 。。。
今この瞬間には、何も起きていません。
ガンガジ その通りです!
まさにその通り。
質問者 私は、今起きていないことを頭の中で作り上げて、最大の恐怖にして抵抗していました。
ガンガジ ええ。そうです。
質問者 車にはねられて即死するかもしれないし、
ガンガジ ええ。その通りなのです。
なんて無駄なことをしていたのでしょうね。
絶対起きてほしくないという架空の物語、
それは今ここにはありません。
あなたは、頭の中のおしゃべりと物語に没頭していました。
そして今この瞬間をまったく無駄にしていました。
それだけです。
単純です。
質問者 どうもありがとうございました。
でも、ただ一つ足りないものがあります。
それは、目覚めていないことです。
ガンガジ 何故、目覚めていないとご自分でわかるのですか?
質問者 わかります。
なぜなら以前、2ヶ月間くらいでしょうか、目覚めの経験をしたからです。
夫が亡くなった直後です。
ガンガジ どのような体験をなさったのですか?
質問者 我が家にいました。
ガンガジ ああ、そうですか。
ご自分でわかったのですね。
質問者 ええ。そうです。
ガンガジ それで?
その後どのように変化したのですか?
質問者 恐れに立ち戻りました。
ガンガジ なるほど。
その変化がどんなふうだったのかを、話していただけますか?
質問者 広がっていた意識が、急に狭い身体に舞い戻ったような感じがしました。
ガンガジ 転生輪廻の体験ですね。
質問者 。。。
ガンガジ それではうかがいますが、
本当の意味で覚醒した意識、つまり決して転生輪廻をしない意識のときにも、
恐れとして認識されるあなたのからだに舞い戻ってきたとき、つまり転生輪廻をした意識のときにも、
全く変化せずにそこに存在していたのは何だったでしょうか?
何が変化しなかったのでしょう。
質問者 そうですね。
静けさが存在していましたが、、、、
でも、体験中は、静けさが変化せずに存在していたことに気づくのは難しかったです。
ガンガジ それでは、あなたのアイデンティティー(自己認識)をシフトしてご覧になるよう提案いたしましょう。
質問者 。。。
おっしゃることはわかるのですが、、、問題はそこなのです。
ガンガジ 何が問題なのですか?
質問者 舞い戻ってきたときに、自分の身体が自分だというアイデンティティーに立ち返ってしまいました。
ガンガジ その通り。それが問題ですね。
あなたという、アイデンティティーが戻ってきた訳です。転生輪廻の体験で。
質問者 はい。
ガンガジ あなたのように意識が広がる体験をすると、そののちに、
今ここにまったく変化せずに存在している ”それ” を、否定したり見逃してしまうということが起こることがあります。
なぜなら、
あれを取り戻したい、もう一度体験したい。というように、覚醒の体験への執着が起こるからです。
けれども体験というのは、起こり、やがて消えていくのです。
どのようにすばらしい至高体験であろうと、体験とはそのようなものです。
誕生があるものには必ず死があるのです。
意識が広がるといった覚醒体験が、初めからあなたに存在していたものなのではなく、あるとき突然現れたものなら、
それは必ず失われるということを意味します。
ですから、あなたが見いださなければならないのは、
体験の如何に関わらず、ずっと変わらずに、今ここに存在している ”それ” です。
それを見いだすことができれば、あなたは、
あなたの注意を、身体から、身体がやってきた源へとシフトさせることができます。
源は常に変化せずに存在しています。
恐れがやってきたのもその源からです。
もちろん私たちは、広がった意識の体験や覚醒の体験といった、
特別な至福の体験や至高体験にあこがれ、それらを好みます。
けれどもそれは、
ある種の状態、状況でしかありません。
そして、状態、状況、には限りがあります。
たとえば、
私たちがはじめてこの身体に気づいたときもそうでした。
どれほど、ドキドキする体験だったことでしょう。
『わあ、これはすごいぞ!』
私という自我の体験は、興奮を伴っていました。
けれども、限りがありました。
質問者 限りがある、、、
その通りです。
私が感じるのはそれです。
ガンガジ そうでしょう。
だって、あなたは今、その身体がご自分であるというアイデンティティーの中におられるのですから。
そのアイデンティティーをシフトさせてご覧なさい。
常に変わらずに、いつもここに在る ”それ” にシフトさせるのです。
それこそが I AM 。真実のご自分自身ではありませんか?
シフトさせるとどうなるでしょう?
ご自分自身に問いかけてご覧なさい。
真実の私とは何かと。
質問者 ええと、、、正直にですか? (ため息)
ガンガジ そうです。正直にです。(笑い)
質問者 先日、鏡を見ていたんです。私が映っていました。それを見て、嫌な感じがしました。
自分は本当はこれではないと、ちゃんとわかっているんです。
でも、じゃあ、鏡に映っているのは誰なんだろうと考えました。
ガンガジ ちょっと待ってくださいね。
ちょうど手元に有りますから。
(ガンガジ、手鏡を取り出す。)
(質問者 会場 笑い)
これはね、力強い瞑想になりうるんですよ。
(ガンガジ 鏡を質問者に向ける)
あなたの顔が鏡に映っていますね。
ごらんになれますか?
質問者 ええ、見えます。
ガンガジ では、この鏡に映っているあなたと、私を見比べてください。
同じ何かが見えませんか?
もちろん形は大変異なっていますね。でも私が申し上げているのは形のことではありません。
形を通り越した向こうに存在する何かです。
鏡に映っている形のもっと向こうに在り、こちらに向かって放たれているのはなんでしょう。
見るという体験の、さらに奥に存在するのは?
質問者 。。。
ガンガジ それでは目をつぶってください。実際に目で見る必要さえありません。
それは既にここに存在していますから、目をつぶっても明らかです。
質問者 。。。
以前あなたにお会いしたとき、
あなたの内側に本当の私が存在しているのを見たような気がしました。
あなたの瞳が輝いて、私に微笑みかけてくださったとき、
確かにほんの一瞬だけ、あなたの中に私の本質を見たように感じたのです。
でも、今は見えません。
ガンガジ この私の身体の奥から叡智が輝き出ているのが見えないと、そうおっしゃるのですか?
(会場大爆笑)
質問者 。。。
命が見えますけれど。。。
ガンガジ 生命力ですね。
質問者 ええ。
そこに生けてある薔薇にもあります。
ガンガジ そうです。
ただね、薔薇ももちろんそうなのですけれど、
この人間の形をした身体にある種の叡智が在り、それがそれ自身を認識し、
そして、あなたという異なった形の身体に存在している同じ叡智と出会っているのです。
おわかりになりますでしょうか?
素晴らしいではありませんか。
質問者 そう。そう。その通りです。
ガンガジ 明らかですよね?
質問者 ええ。
ガンガジ あなたにとってなじみ深いあなたの姿を鏡で見たときに、
質問者 (鏡を見て顔をしかめる)
ガンガジ そうですね。(笑い)
私たちは鏡を見るとき、ふつうは表面を見てそれでおしまいです。
形の悪いところや良くないところ、直したいところにばかり注意が向くものです。
けれども実際にはそこに、叡智が輝いていることに気づく機会があります。
形の向こうから放たれている叡智です。
生命力。意識。他にも違った言葉で表現できるかもしれませんが、
それが、こちらをじっとうかがっています。
鏡の中の意識がそれ自身を見ている。
気づきませんか?
もちろん、目を背けたくなることもありますよ。
鏡の中には、あなたという身体の形や、自己嫌悪や自己憐憫、いろいろなものが見えますから。
質問者 ええ、そういったものが、叡智を見るのを邪魔しているかんじです。
ガンガジ あなたがそのようにおっしゃるのはわかります。
でも、あなたに保証します。
静寂、平安、無限、意識、なんと呼んでもかまいませんが、”それ” は、すべてを包含しています。
身体や、自己憐憫や自己嫌悪といった、目を背けたくなるようなものすべてを包含しています。
ご自分の姿を鏡で見るのと同様にして、他の人の身体も見てご覧なさい。
嫌いな誰かを思い起こさせる身体や、その人のムードだとかから離れて、
つまりそういった事柄を通り越し、”意識’ そのものに気づいてご覧なさい。
鳥や、爬虫類、クジラの瞳、どこにでもあります。
そしてやがてお気づきになるでしょう。
”それ” は形とは何の関わりもないことに。
もちろん形はそれぞれが美しく神秘的で、時には恐ろしくもあるかもしれませんが、
形を飛び越えて、まったく同じなのは何でしょう。
それをご自分自身の中に見過ごしてしまっては、外側にも気づきません。
ですからさきほど、とても重要な、最も強力な瞑想になりえるかもしれないと申し上げた訳です。
私たちは、身体を無視し、無いことにするのが好きです。
皆が熟睡を好むのもそこには身体がないからではありませんか。
中には、朝目が覚めるのが嫌だという人すらいます。そして日中にも深い眠りの状態を求めることもあります。
でも、熟睡中だろうが、起きていて身体がそこにあろうが、
そのようなこととは関わり無く、意識は常にここに存在しています。
ぐっすり眠ったとおっしゃる時、
ぐっすり眠ったことを知っているのは何故でしょう。
熟睡中にも意識が存在し、気づいていたからに他なりません。
さもなければ、熟睡したと言えるわけがありません。
あなたは気づきそのものです。
たしかに、はじめて自分という身体に気づいた2歳頃に、身体が自分であると勘違いをしてしまいました。
性体験も、身体が自分だという体験を深めるものでした。
そしてやがて精神世界を探求し始めると、身体は身体でしかないのかもしれないと思う訳です。
あなたは、身体という制限を超えた意識です。
朝、目が覚め、身体が戻ってきたときに、その事実と戦うのではなく、
身体があろうがなかろうが、変わらずに存在し続けている ”それ” に意識を向けてご覧ください。
鏡に映っている姿の向こうに存在しているのは、なんだろう。
ひどく気持ちが荒んでいるときも、その向こうに変わらずに存在しているのは、なんだろう。
興奮している時、気持ちが高ぶっている時、気分が良い時、そのようなこととは一切関係なく、
そのむこうにいつも変わらずに存在しているのは、なんだろう。
そのようにご自分に質問を投げかけてご覧なさい。
ただ単に止まり、じっと動かず、探さずに。
そうすれば、本当のあなたとは何かを見いだすでしょう。
質問者 見いだす為にずっと努力をしてきました。
ガンガジ それが大難関ですね。
あらゆるところをくまなく探せば、いつかは見つかると私たちは思い込んでいます。
初めてのキスの体験をもう一度味わいたいと探し始めると、既にここに在る真実を見過ごしてしまうのです。
あなたは、覚醒の体験を取り戻したいと探求なさっていた訳です。
ただ信頼し、止まり、ここに在る ”それ” に気づくかわりにね。
質問者 わかりました。
あなたが止まれとおっしゃっるわけが、わかりました。
ガンガジ そうでしょう。本当は皆が知っています。
ですが、止まらないようにと、たくさんの探求の脇道や罠が、私たちの周りに張り巡らされているので、、、
質問者 本当ですね。たくさんありますね。
私のこれまでの人生は、その脇道をひとつひとつ探求する為に使われてきました。
ガンガジ ええ。そのとおりです。
人生のすべてを、脇道の探求に使ってしまうこともできます。
でも、これからの人生のすべてを、それをやめることに費やすこともできます。
やめたからどうなるのかはわかりませんよ。
でも、ただ信頼し、”わからない” にゆだねるのです。
あなたのご主人が亡くなったときに、
それまで前へ前へとつき進んでいたあなたの人生が、その出来事をきっかけに一瞬真っ白になり、止まったのです。
あなたに起きたのはそのようなことです。
質問者 それまで抱いていた死に対する恐怖が、彼の死とともに安堵に変わったのです。
たとえ身体が滅びても、決して失われない何かが在ると、ふとそのとき実感しました。
シフトと言う言葉をあなたが使いましたが、そういう感じでした。
でも、長くは続かなかったんです。
安堵はやがて消えてしまいました。
ガンガジ ですからね、
体験は必ず消えるのです。
そして、消えてしまう体験は、
決して消えないなにかに、私たちの目を向けさせてくれます。
探すのをやめて、止まり、自己調査をしてご覧なさい。
今ここに、なにが存在しているのか? というふうに、注意を向けるのです。
マインドであれこれ考えるのではなく、単に注意を向けるだけです。
特別な出来事が起きたときも、何も起きていないときも、まったく変化していないのは何かと。
質問者 どうもありがとうございます。
素晴らしいです。
来てよかったです。
意図をすればこのような気づきは与えられるのでしょうね?
ガンガジ いいえ、すべてが恩寵です。
与えられるか、与えられないか、私たちにそのようなコントロールはできません。
でも、恩寵がやってきたら、責任を負うことはできます。
私はこの責任をヴィジレンスと表現しています。
目覚めがやってくるのは、恩寵にほかなりません。
ここにおられる皆様も、十分な程の目覚めの体験をなさっているはずです。
でも、その後はあなたの責任です。
目覚めの体験があっても、その後必ず多くの壁にぶつかります。
転んだり、間違ったり、つい偽物に従ってしまったり、
そしてまた探すことを繰り返してしまいます。
そのときに、止まり、動き回るのをやめるのです。
それがあなたの責任です。
恩寵を信頼するのです。
質問者 わかりました。
ガンガジ どんなにがんばっても、はじめてのキスの体験を取り戻すことはできません。
だから一体なんだというのでしょう。
探すのをやめて、ご自分を調査し発見してください。
質問者 ありがとうございます。
すっきりしました。
ガンガジ 疑問がわいたらまずは鏡を見る。これですね。
(会場爆笑)
素晴らしい対話でしたね。
私たちは失われた過去に執着し、未来に注意を向けて生きています。
それが悪い訳ではありません。生存のために脳はそのように作られているのです。
つまり、過去を検証しその結果を未来に投影して、間違いから学び、危険を回避しなければならないからです。
十分な食料を得て安全に暮らすが為の、大変に優れた機能でしょう。
けれども、本当の自分とは何なのかを知ることは、
そのような生存の活動とは関係がありません。
もちろん人間には食料も安全な環境も必要ですし、
アレルギーがあるのならばその食べ物は避けるというようなことは当然のことです。
けれども、明日あなたの命が消えようが、
あなたが幸せであろうがなかろうが、
どこでどのように暮らし、どのような感情で生きていようが、
そういうこととは一切関係なく、本当の自分とは何かを知ることができます。
あなたが成功していようが挫折していようが、病んでいようが健康であろうが、まったく関係がありません。
変化することのない平安は、あなたがどれほど惨めであっても、ここに在ります。
あなたの中にどのような感情があったとしても、感情よりももっと近いところに、変わらない平安が存在しています。
あなたが注意を向け、ただ単に ”在る” ことを選択すれば、発見することができるでしょう。