2010年07月の記事 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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あなたの目覚めに対して、ご自身で責任をお持ちなさい


ガンガジ   昨夜、最後に質問をなさった男性が、席に戻られる前にこのようにおっしゃいましたね。

「僕は、怠慢でいることをやめなければならないですよね。」と。

彼がおっしゃったことがどのような意味なのか、とてもよくわかりました。
そのとおりだからです。
そこで私はこのように申し上げました。

「 責任をお持ちなさい。
あなたの気づきに、責任をお持ちなさい。 」と。


私はこれまで、
何かをすることをやめて、ただ単に、開いて、受け取るということを
お話ししてきました。

私たち人間は、『常に何かをする』ことに執着している種です。
欧米の文化の影響も確かにあるでしょう。

「どうやってあれを得ようか。」
「それが失われないようにするには、何をしたらよいだろうか。」
「あれを受け取るために、何をすればよいのだろうか。」と、
たえず考え何らかの行動を起こすわけです。

それをおやめになってごらんなさいと、皆様に申し上げてきました。

何もしないのです。
ただあなたのマインドを開放するのです。

恩寵は、私たちの選択外のところで起こります。
ここにいらっしゃるすべての皆様の人生にはもう既に起きました。
あなたがそれを起こした訳ではありません。
起きるようにと祈られたのかもしれませんが、あなたが引き起こした訳ではないですね。
恩寵は、『何かをする』ことから、まったく自由です。

そのように申し上げると、質問が出ます。
「それでは、起きた恩寵がどこかへいってしまわないようにするには一体どうしたらよいのでしょうか?」
「恩寵に、正直でいるにはどうしたらいいのでしょうか?」
「どうしたら、真実の私に気づくのでしょうか?」
これらは、すべて、『私』は何をすればよいのだろうか、という質問です。

そして、ご存知の通り、私はこの質問に対して、長い間
「何もするな」と申し上げているのです。

けれども、昨夜、男性が質問をなさった時、
責任を持つようにと、つまり、何かを、する、ようにと彼に申し上げました。
どのような意味なのか、そのことをこれからお話ししましょう。
『私たちに選択できないことと、選択できること、があることに気づく』ということについてです。

恩寵が起きるかどうかということは私たちには選択できないと、たった今申し上げました。
私たちの都合に合っているかどうか、私たちが好むか好まないかに関わらずにそれは起こります。
ときには、起きて欲しくなかったと思うこともあるかもしれません。
そのときのあなたにとって、全く都合の悪い恩寵、というものだってありますから。

また、過去に起きたことが原因で、わき上がってくる感情、これも、やはり選択することができません。

ところが、
人生のある時点で、それは、かなり成長した状態なのですが、
選択ができることがあるということに気づく場合があります。
自然に気づくというよりも、意志が気づきをもたらすと申し上げましょう。

その意志とは、
『選択ができないあらわれの中にいながらも、あなたが自分で選んでいることがある』ということをすすんで発見しようというものです。
  
それは、あなたのマインドと、人生に起きる現象との関係です。
あなた個人の人生かもしれませんし、集団としての人生かもしれませんが、
どちらも同じことです。

先に申し上げたように、出来事は、あなたのコントロールがきかないところで起こります。
あなたの内側でも、外側でも、あなたがそれを選択することはできません。

けれども、その中に選択できることがあるのです。
あなたが責任を引き受けることのできるところです。

それは、
『ああ、また同じことを繰り返すことを、自分自身で選んでしまっている』ということを見る責任です。
そして、
そのような自分自身に、開いて、向き合うという選択です。

それに伴って、たとえ、特別な思考、居心地の悪い感情や出来事、身体の感覚が起きたとしても、そのことに向き合い、心を開くという選択です。

昨夜質問をされた男性に、責任をお持ちなさいと申し上げたのはこのことです。

人間には、長い間、居心地の悪い感情を選択せず、そのかわりに楽しみを長引かせようとしてきた歴史があります。
逆に、中には、居心地の悪い感情を長引かせ、喜びを拒否したい癖をお持ちの方もいらっしゃいます。

特殊な癖ですね。

(笑い)

それがどのような癖であろうと、苦しみがあるのは、そこです。
なぜなら、癖がくりかえされるところ、それが、あなたが責任を引き受けていないところだからです。

あなたにすべての責任があるのは、そこなのです。

もしかすると、
責任がないように感じられるかもしれません。
けれども、
あなたがいつも従ってきた癖に従うのをやめ、
心を開く選択をしてご覧になれば、おわかりになるでしょう。

自由が現れます。

あなたには自由な意志があります。
それは、宇宙全体に対してだとか、
もう既にあなたの中に転がり込んできていることに対してではありません。

責任を取るかどうかということに対する自由意志です。

先日、レイチェルの結婚という映画を見ました。
題名から予想したストーリーとは、全くかけはなれていました。
麻薬から抜け出すためのリハビリの話でした。
その中で、カウンセラーが
『あなたは何を選択しているのか。
たった今何を選択したのか』と、尋ねるのですが、
まさにその通りです。

私たちは中毒です。
私たち一人一人には、
中毒になっている考えや、ストーリー、感情といったものがあります。

そして、あなたの中に、この、中毒を引き起こしている感情の波がわきあがってきたとき、ある時点であなたは、
被害者に陥るか、それとも、責任を持つか、そのどちらかを断固として選択することができるのです。

毅然とした態度で、
「NO! もうごめんだ!」と言うことができます。

パパジが、
あなたという高貴な存在に対して、あなた自身が責任を持つこと、と
表現なさいましたが、
それは、あなたという輝きに対して責任を持つことです。
あなたの目覚めに対して、自分自身で責任を持つことです。

お分かりでしょうか。
何かをするのではなく、やめるのです。

ずっと、自分を被害者にしてきたことをやめ、
自分の価値を低く見積もり、自分の目覚めを否定してきたことをやめるのです。

それが、『家に帰る』という意味です。
家に帰るという表現は、
お母さんのお乳を飲んでいた赤ちゃんの時のように、何の心配もなかった頃に戻ることだとお思いになっているかもしれませんが、
そうではありません。

『家に帰る』とは、 大人として生活をしながら、 自由であり、目覚めていることです。そして、あなたには、何もコントロールすることができないのだということを知りながらも、 あなたが選択することのすべてに、すすんで向き合い、そのことに意識的でいることです。

あなたが、『真実のあなたである』ということに対しては、あなたに選択することができません。
なぜなら、あなたはもう既に『それ』だからです。

あなたにできる選択とは、
『真実のあなた』とはいったい何なのか、誰なのか、を調べてみることです。.

あなたが今朝、ここにいらっしゃることもその選択の一部ですね。
身体と、時間と、お金を使って、そのことを調べて見ようと、ここにいらした訳です。

何万年、何十万年という長い間、
まったく意味がないように思えた、
『真実のあなたでいる』というそのことを、
あなたは今、この時点で、この人生で、この週末のこの朝に、意志を持って選択なさっています。
たとえ、一体何を選択しているのかが明確に定義できなかったとしても、
『あなたという真実の核心に開いていること』を、
あなたは今、選択なさっています。
 
でも、これで、十分ではないのです。
あなたの人生のすべてを、この選択に捧げなければなりません。
なぜなら、これは、長い間拒否されてきた選択だからです。

ですから、
もしもあなたが、突然またいつものモードに戻り、
ああでもない、こうでもないと、その選択を否定し始めたら、
「おっと。ちょっと待てよ。
今、私は何を選択しているのだろうか?」と、責任を取ってください。

なぜなら、
あなたの中の被害者は、

「私のせいで。」
「あなたのせいで。」
「あの人のせいで。」
「今までだって一度もなかったのだから、これからだってあるはずがない。」
「なくしてしまったから。」
という具合に、どんどん膨れ上がって続いていくからです。

そのまま被害者を肥大させるか、
それとも、やめるかです。

私がここにいるのは、あなたが、そのような古いストーリーを、おしまいにするのをサポートするためです。

あなたが、また新しいストーリーを作り出すために、私はここにいるのではありません。
新しいストーリーは、選択することなく現れてくるかもしれません。
なぜなら、それは、マインドの瞬間的な働きだからです。
そのことはまったく何も悪くはありません。

私がここにいるのは、
それが古いストーリーであろうと、新しいものであろうと、
たとえあなたが、あなたというストーリーのまっただ中にいらっしゃるのだとしても、
『選択せずとも、もうすでにそうであるところの”真実のあなた”』を、あなたがすすんで選ぶことができるように、サポートをするためです。

そしてあなたが、
一人でおられても、グループの中にいらしても、隣にどのような方がやってこようとも、そのことを、あなたという存在そのものに対して表現し、
『真実のあなた』を、あなたから溢れ出させることができるように、あなたを支えてさしあげるためです。

それはあなたが何もなさらなくても、ひとりでに溢れ出します。
私のまねをして、言葉にする必要はありません。
言葉になさらずに、
それがあなたから自然に溢れでてくるのが一番よいのです。

そうなると、あなたは、この大きな世界全体に対して、
もう一つの被害者のストーリー、
つまり、選択することなしに、無意識に起きるもう一つのストーリーをばらまく代わりに、
『真実のあなたであるところの、純粋な光り輝く存在そのものに、自らを開く』という、人間の可能性を寄与することになるでしょう。

ですから今、
『あなたの生は、世界に対して一体、何を与えているのか』を
よく調べてみてごらんなさい。

あなたの選択です。

これは、あなたの感情や、今起きている出来事とは全く関係ありません。
あなたの過去に何が起きて、それが起きたときにあなたがどのように感じたかとか、将来あなたに起きるかもしれないことや、そのときにあなたが何を感じるであろうかなどということとも、全く関係がありません。
あなたの選択がそのようなこととなんらかの関係があるのならば、
それはおなじみの古いストーリー、

『私』というストーリーです。

『私』に起きた、
『私』に起きるかもしれない、
『私』に起きるべき、または、起きるべきではなかった、
そういうものが、
『私』です。
それが、被害者です。

『私』にならないでください。
重荷です。

本当のあなたへの虐待です。
今のあなたの人生のこの時点では、もうそのようなことは全く必要がありません。
なぜなら、あなたは、あなたに起きたこの奇跡に向き合い、それを受け取ることを選んでおられるからです。まったく予期せずに起きたことなのか、それとも、祈られたのか、子供のときに既に起きたのかどうかはわかりませんが、
でもとにかく、
『真実を知りたい』という
恩寵や奇跡があなたに起きたのです。

真実のあなたが、あなたを愛してやまない『それ』が、あなたを呼んだのです。
あなたの名前を呼んだのです。

『ここにいますよ』と。

そして、私の話が、いくらかでも、気になっていらっしゃるようなら、
あなたには準備ができています。

これが、昨日お話しした、『切望する』ということの意味です。

計り知れないほどに大きな何かが、あなたの内側からあなたを呼んでいます。

もしも、あなたが、
今はそのようには感じられないけれども、それでもやっぱりここにいらっしゃるのでしたら、過去に呼びかけられたことがあったはずです。
本当はご存知のはずですね。
呼びかけられたのに、くだらないことだと脇にどけておいたのかもしれません。

今後、何度、呼びかけられるのか、それはわかりませんよ。

(笑い)

と申しますのは、呼びかけを脇にどけておくことを選んでしまう痛みが、
麻痺してくるということがあるからです。

そうなると、あなたの中に生き生きと息づいているこの恩寵が、あなたが作り出すストーリーによって不鮮明になってしまいます。

ですから今このとき、この、貴重な時間を使い、
何か、いい訳をしていないかどうかを進んでごらんになってください。

『このような理由があるからできない』
『今はまだできない』
『私には、できない』などです。

そして、言い訳なさっているのでしたら、
単純に、それをおやめになってください。
私が申し上げているのは、どうか成長なさってくださいという意味です。

成長してください。

成長するのは、素晴らしいことです。

こどものあなたが考える成長とは違いますよ。
こどもにとって、大人になることは退屈に見えます。
ガンガジの人生を生きていらっしゃらない方にはきっと私の人生は大変退屈に見えるでしょう。

成長して、ご覧になってください。
そうすれば、おわかりになります。
こどものあなたを楽しませていた事柄は、もう、あなたを楽しませないということを。
こどものあなたを怖がらせた事柄は、もう、あなたにとって怖いものではないということを。
こどものあなたに魅力的だった事柄は、もう、ちっとも魅力的に見えないということを。

こどもっぽいものはみんな、捨てておしまいなさい。

さあ、
よろしいでしょうか?

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こどもたちに与えることのできる最高の贈り物とは


質問者     子供たちを取り巻いている世界のことを考えると恐怖がやってきます。
どのようなことがあっても彼らを守らなくてはならないという気持ちと同時に、私がこの世からいなくなってしまったら、いったい誰が私の子供たちを守るのだろうかという考えが湧いてきて、恐れでいっぱいになります。

こんなふうに私は、私自身の事で恐怖を感じるというよりも、子供たちの事で恐怖を感じます。

ガンガジ    ええ、そうですねえ。

あなたは、ご自分の事で恐怖を感じるのではないとおっしゃっていますが、子供という、あなたご自身の延長線上で恐怖を感じていらっしゃるのです。

あなたが気づかなければならない重要な事は、
最終的には、子供たちの身の上に起きるできごとを、あなたがコントロールする事はできないという事です。

子供たちの事に限らず、あなたにコントロールできるものは、実際には何もありません。

この、コントロールができないという恐れは、私たちの恐怖の、まさに核心の中の核心です。
というのも、生存していかなければならない動物としての私たちは、生き抜くために、例えば、なんとかして食べるものにありつきたいとか、住処を確保したい、サポートしてくれる仲間を見つけたい、子供の命を危険から守りたいという具合に、コントロールするすべを探し求めるからです。

ですから、私たち人間という動物の、コントロールをしたいという根本的な本能にもかかわらず、死という現実があり、最終的には、自分自身も、子供たちも、地球でさえも、私たち個人にはコントロールすることはできないのだという現実に気づく事は、私たちにとって衝撃的な瞬間です。

ぞっとする瞬間です。

けれどもそれは、
すべてを明け渡し、深遠な開放が起きる可能性のある瞬間でもあります。

あなたが、この、ぞっとするような瞬間に、心を開き、完全に明け渡すと、
あなたと子供たちとの人間関係が,心配によって汚染されるかわりに、
命そのもの、つまり、あなたという個人の命を超えた、もっともっと大きな何ものかが私たちのすべてを支えているということに気づく可能性があります。

それを宗教では神と呼んでいるのかもしれません。形而上学者は、カルマというふうに呼んでいるのでしょうか。なんと呼ばれていようとそれはかまわないのですが、個人を超えた『命そのもの』、『命の源』がそこには在り、それがあらゆるものを動かしているという事に気づく可能性です。

その大きなものの中で、ある人は苦しみ、ある人は死に、また、ある人は成功し、ある人は失敗するでしょう。

けれども、あなたがそれに全託をすれば、あなたは、ご自分が平安でいるということを、ご自分自身でコントロールすることが可能になります。

そうなると、子供たちは恐れの代わりに、あなたから平安を受け取ることでしょう。
 
質問者    わかりました。

それでは、
恐れずに、人生のいろいろな状況に対処していくという事を、子供たちにどのようにして教えたらよいのでしょう。
恐れにとらわれず、でも、注意深くしているようにと教えたいのですが。

ガンガジ

そうですね。
なかには恐れた方がよい状況というのもあります。

でも、どのようなことでもそうですが、 あなたが、誰かに教える事ができることというのは、唯一、あなたご自身がご自分で気づかれたことだけです。

あなたご自身が体験した事であるのならば、どのような形を使っても、伝わるべきことが伝わっていきます。
例を出して説明しても、本を読んであげたとしても、言葉を通しても、通さずとも形を選びません。

初めにあなたがご自分自身で気づかなければならない事は、怖がっていることで、恐れがあなたの人生を矮小化してしまっているということです。
そして、あなたがそのことに、こころを開く意志を持てば、あなたはきっと驚かれることでしょう。
なぜなら生きる力が、 あなたを通して、自然に、もっと自由にあふれ出てくるからです。

子供たちに教えるとはそういうことです。

あなたは、あなたの子供たちと一緒にいるということで、子供たちにいつも何かを教えています。あなたが持っているものを彼らに発信し、彼らはそれを常に吸い取っています。 
その事に気づく意志があれば、あなたが彼らに与えることのできる、最高の贈り物が何なのかがわかりますね。
つまりそれは、あなた自身が、真実のあなたに完全に目覚めるということです。彼らはそれを確実にキャッチするでしょう。

私たちは、お互いが出している波動でつながっています。ですから、 まるで、伝染病に感染するかのように、恐怖や、怒りを、お互いの間で受け取ってしまいます。同じように、歓びや、ゆだねや、『私たち』いうアイデンティティーよりももっと奥にある、真実の私たち自身を深く発見しようという意志も伝わります。

そのアイデンティティーは、人間であるとか、母であるとか、男だとか、女だとか、探求者だとか、悟っているだとか、いないだとか、そういうものであるのかもしれませんが、そういったもののもっと奥底に、もうすでに、あらゆるアイデンティティーから解放されていて、自由であるものがあります。それを発見しようという意志も伝わるのです。

そうなると、恐れにも、適切な役割があらわれます。
適切でない恐れは、明らかにおわかりになることでしょう。

私が皆様と会話を始めたとき、私の師が私に向かって、
『何を、いったいどうやって教えようかなんて、いっさい心配しなくてもいいんだよ。ただ、君が体験した事を話せばいいんだ。』
とおっしゃったのですが、まったくそのとおりでした。

あなたは、単純にあなたの体験を分かち合えばよいのです。
もしあなたの体験が、あなたが教えたい事であるのならば、その場にあなたがいるというだけでそれは伝わっていくからです。

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