2010年09月の記事 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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死と向き合う


ガンガジ   死についてお話ししたいと思います。

死と言っても、いろいろあります。
毎瞬、毎瞬、死があります。
毎晩、眠りにつくのも死ですし、
恋人との関係が終わったときにも、そこに死があります。
子どもが成長し、家を離れるのもひとつの死ですね。

でも、今日ここでお話ししたいのは、肉体的な死についてです。
肉体としての生命の終わりについてです。

特に欧米の文化では、
肉体的な死は、何よりも避けられ、否定され、人の目から隠されます。
そして、そのように扱われているために、死の中にある大きな贈り物、宝物が見過ごされています。

このように申し上げますと、多くの皆様が、
『なぜ死の中に、宝物やプレゼントが隠されているのですか?』
とおっしゃいます。
そして、そのあとの言葉が、こんなふうに続きます。
『死んで無になってしまうなんて、恐ろしくてたまらないですよ。
その中に、いったい何があるというのでしょうか?』

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
先日、サンフランシスコ近郊の湾岸の町で、
長い間、サットサン(真理の集い)を主催していた、ヴァーゴが亡くなりました。

彼が亡くなる数週間前、私は、彼と一緒に過ごしましたが、
それは本当に大きな宝物でありプレゼントでした。
彼が亡くなる前の晩も、
幸運なことに彼と話をすることができました。
そして、亡くなった後も、遺体のとなりに座って過ごしました。
そこでは、死は、抽象的なものではなく、
実際にその場で起きていることでした。
観念ではなく、部屋の中で、死とともに過ごすという現実でした。
死が明らかに近づいてくると、
やがて、肉体としての生命を、そこから連れ去っていったのです。

ところがそのあと、
死の中で失われ、与えられたものの中に、
はっきりと、宝物が残りました。
それは、
そこにいることをいとわず、
彼の苦しみ、肉体的な苦しみや死と共にいようと決意していた私たちにとって、計り知れないほどの恩恵でした。

彼の死が特別だったことは、
彼が、死が近づいていることを知っていて、そのことを否定しなかったことでした。
病気と闘わなかったということではありません。
負けたということを知るまで戦い続けました。
でも、戦いは終わり、翌朝彼は亡くなりました。
すべてを手放しました。

ですから、私が今日ここで皆様にお誘いしているのは、病気とは闘わないという探求ではありません。
病気と闘っている間も、
死は、その時がくればやってくるのだということを知る探求です。
そして、ヴァーゴが出会わなければならなかったように、
そのことにしっかりと出会う受容力を持ち、
出会おうという意志を持った私たちすべてに証明するのです。

これは、ここにいらっしゃる皆様方のどなたにとっても、全く例外なく関わりの深い事柄です。

遺体に、立ち会ったことは他にもありますが、
フォメルドハイドでしたでしょうか?
防腐剤などのような、とにかく何であれ、見た目を良くする薬剤を注射し、
遺体をピンクや、バラ色にするのも、一つの死の形態です。
棺桶の中の、綺麗に飾られた姿を眺め、それから蓋を閉め、土をふりかけますね。

でも、そうではない、死の形もあります。
死んでしまった後、遺体には何の手も加えられません。
ですから、それは蒼白そのものです。
生きていないということは、疑う余地もありません。
私たちが覚えていたいようなヴァーゴに見せかけるための、ほほ紅や口紅をぬったりせず、きわめて生裸な死、という形態です。

しかし、進んでそこに居合わせようと決意をしたとき、
そこには、
絶対的な、否定することのできない美しさと、 永遠に生き生きと生きつづけている、『存在』がありました。
それは、
生きているように、ふくらませたり、手直ししたり、紅をぬったりする必要のない
『存在そのもの』でした。

ヴァーゴは消えていなくなってしまいました。
私たちが知っているヴァーゴという形は、火葬にされ、灰になり消えてしまいました。
ヴァーゴの思い出、
愛すべき人格やいらだちなど、彼のいろいろな状態の思い出はありますが、
ヴァーゴという形はなくなってしまいました。

でも、
その、彼という形に命を吹き込み、彼を動かしている
『存在そのもの』はどうでしょう。
それは、
あなたに命を吹き込み、そしてあなたを動かしている
『存在』とまったく等しいものです。
そしてそれは、ありとあらゆる形を動かしているのです。

その、『存在そのもの』としての真実のあなたに目覚めるためには、
あなたが、御自分で、あなたと呼んでいるその肉体も含めて、
あらゆる形あるものの死と、しっかりと出会おうという心構えでいることです。
そうすれば、それは、歓びに満ちた出会いとなります。

ただし、それはもちろん、喪失の時でもあります。
なぜなら、
私たちにとって大切な、自分自身という身体を失う時かもしれませんし、
私たちが愛している大切な誰かを失う時であるのかもしれないからです。

そこには喪失があります。
でも、そこには、
あらゆるものを動かしていたのは、『真実の存在』であり、神という『存在』であるということに気づく喜びがあります。

くりかえしますが、
死という形のプレゼントが、
『それ』が、ここに在る、ということを、 そして『それ』は、永遠である、ということを証明しているのです。

私は、
夜も、昼も、朝も、たくさんの時間を皆様とともに過ごし、死についてお話ししています。

スピリチュアルな道というのは、死への道と同じです。
それは喪失の道なのです
多くの人々が、何か、得るものを求めて、スピリチュアルな世界にやってこられますが、本当のスピリチュアルな達成というのは、あらゆるものを失うことで得られます。何もかもを喪失するということで得られます。

幸運なことにヴァーゴの場合は、喪失に直面するために、
病気が身体を連れ去っていってしまうのを待つ必要がありませんでした。
恩寵のおかげでしょうか、それとも運が良いのでしょうか、
彼は、この喪失について、
死のずっと前に調べてみることができました。
最後には、病気が彼の身体を連れ去っていってしまいましたが、
彼は、ずっと前にそれを調べてみることができたが故に、自由の中で死を迎えることができました。
平安の中で死ぬことができました。

なにか大切なものを失うという、その喪失の中で、
実は、もっと多くさんのものを得るのです。

私は、 皆様方、お一人お一人に、
今晩、今この瞬間に、死を疑似体験してごらんになってはいかがでしょうかと、お誘いします。

身体は、いずれは死にます。それは誕生とともに約束されています。
そして、
今夜、ここには、
身体が死ぬ前に死に直面してみるという機会が与えられています。
身体に対する執着や、愛着といったものに気づき、
それを死なせてしまうという機会です。

そしてその死の中で、
あなたが本当は何であるのか、という事の真実を知るのです。

これは、ラマナからのプレゼントです。
ラマナが十代のときに、まさに、そのようなことが起こりました。
彼は身体が死ぬ前に死んだのです。
横になると、そのまま、死に直面しました。
そしてその瞬間に、何もかもを失いました。
親も、経歴も、将来も。
未来や 過去さえも失いました。

得ることと失うこと。
そのどちらをも失ったのです。
なにもかもすべてです。

しかし、
得ることと失うことのどちらをも喜んで失ってもいいと、
心の底から、そう決意すると、
『私とは一体誰なのか』ということへの気づきがあらわになります。
それは、ラマナの中で明らかになりました。
そして、あなたの中でも明らかになるでしょう。

彼には
この気づきの後も、長い年月が残されていました。
今晩、もしもあなたが、一瞬、止まり、進んでご自分自身の死を体験してごらんになるならば、あなたはきっと、 少なくとも一瞬か、あるいは、数日、数週間、
それとも、もっと長い間にわたってかもしれませんが、
「『私』が死んでしまったら、『私』の人生はどんなふうなのだろうか」
「そこに『私』がいないときの私の人生とはいったいどのようなものだろうか」
「そこにあるのが『私』の問題ではなくなった時、その問題は一体どのようになるのだろうか」
ということを観察し、見いだすことになるでしょう。
そうなると、あなたは、
残りの人生を、そのことについて、私たちと分かち合うことになるでしょう。
その気づきからやってくる甘い蜜への飢餓感や渇きが、誰の中にもあるからです。

ヴァーゴと彼の死の過程は、私たちへのプレゼントでした。
実際には彼は、死のずっと前にこのプレゼントをくれていました。
なぜなら彼は、ずっと以前に死んでいるからです。
ですから彼の生も死も、どちらもが、
究極的に、相対的に、絶対的に、同じプレゼントなのです。

どのような形でも、可能な限り、私はあなたに力をお貸しいたします。
と申しましても、
実際には、解き放すということに対しては、どのような援助もありません。
私に援助できることといえば、
なぜあなたが、つかんではなさないのか。
そしてそれが、どのような仕組みによるものなのかということを、
あなたご自身で発見することに対してです。
「今はできない」という考えを後押ししているもの何なのか。」
「できることはできるだろうけれど、でももしかしたら、後から必要なこともあるかもしれないから、、、、』
というような、
そのようなことをやめられるように、援助して差し上げたいと思います。

ここにいて、
過去のあなたを、死なせてごらんなさい。
将来のあなたを死なせてごらんなさい。


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選択の瞬間


質問者    あなたの対話を初めて聴いた頃、私は絶望のどん底にありました。

与えられた状況が、どのようにあがいても一生つきあっていかなければならないものであるという事実を、なんとか変えようとして、躍起になっていました。様々なスピリチュアルな教えをさまよいましたが、生半可な希望や起きている現実に対する多種多様な解釈は、私をますます落ち着かなくさせ、苦しみの深沼へとはまり込んでいきました。

『ほんとうのあなたは、あなたがあなただと信じているそれではありません』
という、あなたの言葉を聴いた時、それはとっても新鮮に聞こえたのですけれど、私はずっと前から、そのことを知っていたのだというふうにも感じました。ですから、あなたのお話をもっとたくさん聞いてみたいと思いました。そして、あなたの対話を毎日繰り返し聴きました。

恐れに向き合うのはなかなか困難でした。
でも、希望がありませんでしたし、探し求めることに疲れて果てていましたから、あなたがおっしゃるとおりにやってみてもいいかなと思いました。

(笑い)

恐れに襲われる度に立ち止まりました。
そしてあなたがおっしゃるように、何度も、そのエネルギーに対して心を開きました。
どのようなことが起きるのかはわかりませんでしたが、とりあえず、やってみていました。

(笑い)

そしてあるとき、気づきました。
言葉で表すのは難しいのですけれど、、、、
恐れから気持ちをそらさずにじっと留まっていたら、そこにはただ大きな、しんと静かな空間があるだけだったのです。
初めて体験した、本当の平安、でした。

ガンガジ   こどもが、ベッドの下にお化けがいると言って怖がっているのと同じですね。母親はこどもに、ベッドの下をしっかりと見てご覧なさいと言うでしょう。
逃げることをやめてしっかりとみてみると、お化けはそこにいないということに気づくのです。

質問者    はい。
そして、私が恐れていた『将来』は、私が作り上げていた幻想だったということもはっきりとわかりました。

真実は、
『私は何もわからない』という言葉につきます。
だってほんとうにそうなのですもの。

(笑い)

ガンガジ   その通りです。
素晴らしいですね。

あなたがおっしゃっている「わからない」とは、成熟した、智慧ですね。
無知という意味での「わからない」ということではありません。

意識的にわからない中にいるということが、
ゆだねです。

質問者    ええ、そうです。

『私』はわからないのだ、ということがわかったら、平安が現れました。

『私』は信頼するに足らぬものなのです。
考えの寄せ集めなのです。

以前恐れていたものが、もう全く怖くありません。

(しばらく沈黙)

あなたのおかげです。
どれほど感謝しても足りないくらいです。

最近、あなたが、「責任を取る」というお話をなさっていることを何度か聴きました。
『また、同じことを繰り返してしまっている、ということを見る責任は私にあるのだと、あなたはおっしゃっていました。そして、そのことに対して、開くという選択が私にはできるのだというふうにおっしゃいました。
 
それはとてもパワフルな言葉でした。
なぜなら、私は、
苦しむことを自分が選択しているということを、薄々、というよりも、
とてもはっきりと、知っていたからです。
ただ、そのことをうやむやにしていたかったのです。

起きている状況や、誰かのせいにして苦しむというような習慣があり、
悲劇のヒロインを演じることを楽しんでいたとも言えます。
それをやめてしまったら、生きている楽しみが無くなってしまうのではないかというような気がしました。

(笑い)

ガンガジ   エンターテイメントですね。

質問者    そうです。

けれども、
本当に手放してもよいと決意しました。
飽き飽きしたからです。

「もう、いい加減、エンターテイメントはいらない」と感じるまでに、
永遠のような時間を費やしてきたような気がします。

ガンガジ   真の、成熟ですね。

質問者    それで、
あなたがおっしゃることを、何度も自己検証してみました。

はじめは、意識的に立ち止まることが必要でした。
そうやって自分の中で何が起きているのかを何度も見ました。

技術を習得するのと同じだと、あなたはおっしゃっいましたが、まさにそのような感じでした。
動作を確認しながら、車の運転を覚えるというようなかんじでスローモーションで見るようにと、あなたはおっしゃいましたが、
私は、自分の中で何が起きているのかを根気強く何度も見ました。

そして、最近は、考えがやってく瞬間というのが確実にわかるようになりました。
私の身体の中になんらかのエネルギーの動きが起こるので、考えがやってきたということがほとんど同時にわかります。
そして私は、気づいた瞬間に考えを手放します。
すると即座に解放が起こります。

ガンガジ   まさにその通りです。

質問者    たまに、考えを意識的に招き入れ、しばらく遊んでみることがあります。
数秒間ですけれど。。。
でもすぐに、遊ばなくてもいいと感じますので手放します。

そのような選択は、私の中で、今はとても瞬間的に起きています。
けれども、手放すか、招き入れるかという選択を、自分でしているその瞬間がそこにあることは、はっきりと、大変明確にわかります。

また、あるときは、
招き入れた考えは、2、3時間私の中にとどまり、
ときには私は、もっと長い時間、留まることを許しますが、

(笑い)

するとそれは大きく膨張して、手に負えないと感じ始めることになります。
でもある時点で、
「もうたくさん。」と、
私は、その考えを手放します。

あなたがおっしゃるとおり、苦しむか苦しまないかという選択は、私にあります。
あなたは正しいです。

(会場笑い)

ガンガジ   皆様、今、彼女はとても重要なことをお話ししてくださっています。
私がいつも皆様にお話ししている、私たちにある責任について、
彼女の体験からお話ししてくださっています。

おなじみの考えを、何度も招き入れ、苦しみを選択することも自由ですし、
「もう結構」と、即座に手放すことも自由です。
そこに選択の瞬間があり、私たちは、どちらをも自由に選択をすることができるのです。

選択の瞬間に気づくために、初めは、意識的に何が起きているのかを見る必要があるかもしれません。
やがて、瞬間的に見え、選択ができるようになります。
そしてやがてそれは、まるで自動的に起きているように感じられるようになるでしょう。
選択は一秒にも見たない時間の中で起こります。

そのようなことが、誰にでも可能です。

『本当に欲しいのは何だろう?』
と、何度もご自分に問いかけてみてごらんなさい。

質問者     あなたに心から、感謝をしています。

ガンガジ    私の話を鵜呑みになさらずに、検証してみてくださりありがとうございます。

あなたのお顔を、皆様の方に向けていただけますか?

(質問者 会場に顔を向ける)

どうでしょう皆様、彼女のお顔をご覧ください。

私たちは、お互いに気づいたことを、このように与え合うことができます。
受け取り合うことができます。

真理は伝染していきますから。


素晴らしいですね。

あなたがいらしてくださったことに、心から感謝いたします。

(ガンガジと質問者、向き合ったまま合掌、長い間沈黙)




   




   

















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選択

 

質問者    ここでお話をするのはとても恥ずかしい気持ちがしますが、
私は、すぐに人を遠ざけ、引きこもり、関わりを絶ってしまいます。
どうしたら、そのようなことをすることをやめることができるかを、質問したいのですが。


ガンガジ   これはあなたが学んできたパワー、力ですね。

質問者    とても強烈です。

ガンガジ   そうですね。

そして時には、そのように、人から離れ、遠ざかるパワーが必要なこともあるでしょう。

とても強力ですね。
ある人々は、このような力を身につけます。

そこで、
私からあなたへの質問は、
この力を捨ててしまう意志が、おありかどうかということです。

質問者    はい。はっきりしています。捨ててしまいたいです。

ガンガジ   それはすばらしいですね。

それでは、この力を使いたいという気持ちがわき起こったときに、それに近づかないことです。

それほどに簡単なことなのです。

複雑にしてしまうのは、
「万が一のときのために、ちょっとだけとっておこうかしら、
ひょっとしたら、いつかまたそれが必要になるかもしれないし。」
というものです。

あらゆるスピリチュアルな教えが、
あなたを夢中にしてきた力に溺れることを、放棄する必要性について語っていますよね。

あなたに楽しみを与えているこの力は、同時にあなたに苦しみも与えています。あなたはそのことに気づいていらっしゃいます。
力には限りがあるということをご覧になることができるのは、成熟ですね。

あなたがほんとうに欲しいものは、ご自分を切り離してしまうその力よりも深いのです。

あなたは気づいていらっしゃらないかもしれませんが、
この力を使っているとき、あなたは段階を踏んでいらっしゃいます。

質問者    嫉妬です。比較です。

ガンガジ   嫉妬。比較ですね。
始めに、比較が起こり、そして嫉妬が起きますね。

質問者    はい。

ガンガジ   それから?

質問者    不足感が起こります。


ガンガジ   不足というストーリーですね。
そして、不安というストーリー。

質問者    はい。

ガンガジ   不安のストーリーには、恐れがありますね。

それから?

質問者    。。。

ガンガジ   それから何が起きますか?

と申しますのはね、ここまでは、まったく問題がないんです。
問題はどこにもありません。
痛みが伴っているかもしれませんが、痛みには問題がないんです。

痛みを避けようとあれこれさがし始めると、とたんにそこに苦しみが生まれます。
やめる必要があるのはそれなのです。
痛みを避ける方法探しです。

痛みには何も問題がないのです。
避ける方法をさがすのを止めてみるとそのことがよくわかります。

では、次に何が起きるのですか?

質問者     感情が傷つくのを避けようとします。

ガンガジ    感情が傷つくのを避けようとする。

そのとおりです。

それでは、そのことの中に入って行きましょう。
どのようなステップがありますか。
あなたの感情が傷つくのを避けるステップですね。

あなたは、あなたご自身に何と言ってきかせるのでしょう。
マントラがそこにあるはずです。

質問者    とても早く起こるのでよくわかりません。

ガンガジ   そうですね。
では、動きをゆっくりご覧になってください。
スローモーションにしましょう。
そうすればはっきりとご覧になれるでしょう。

(笑い)

あなたは繰り返し練習を積んでいるので、とても早くそれが起きるのです。
例えば、車を運転する時と同じですね。
次はどのステップだったかなあ、と考えることはありませんね。
普通はまったく考えもせずに運転なさいますね。

でも誰かに教える時は、
ここをこうやって、
次はこうやって、
それから、こんなふうにサイドミラーを見て、
という具合にひとつひとつゆっくりとなさるでしょう?

ですから、そういうふうに、教えていただけませんか?

あなたの中でどのようなことが起きて、自分の殻に閉じこもり黙りこくってしまうのかを、私に教えてください。

さあ、どうやって、殻に閉じこもったらいいのかを習いたいんです。ステップを教えてください。

(会場笑い)

質問者    はい。

ガンガジ   あなたにとっては、それはとても自然に起きてしまうのでしょうが、
でも実際は、自然に起こる訳ではありませんね。
そこに至る、道があることを今ごらんになりましたよ。

質問者    虚ろになります。

ガンガジ   虚ろになるのですね。


(ガンガジ 虚ろな顔を作る)

質問者    後ろの方で、黙りこくってしまいます。

ガンガジ   それからどうなさいますか。
こころの内側では、どのように感じていらっしゃいますか?

質問者    そうすれば、みんながどこかに行ってしまうということはありませんから。

ガンガジ   なるほどそれはそうですね。

わかりました。
私にもそこまでならできます。

質問者    よろしい。よろしい。

 (会場爆笑)

それから、アドナリンがたくさん出ます。

(笑い)

ガンガジ   アドナリンの分泌ですね。

それはなぜ出てくるのでしょう?
どうやってそれを生じさせるのですか?

質問者    よくわかりません。

ガンガジ  よく見てご覧なさい。
私に教えてくださるのでしょう?

質問者    そうですね。


(笑い)

ええと。
怒りでいっぱいになるんです。

ガンガジ  こういう状況を引き起こした誰かに対して、怒りでいっぱいになる訳ですか?
つまり、
「私をこんなふうに自分の殻に逃げ込ませた誰かに対してですか?」

質問者   そう。そう。

その通りです。

ガンガジ  わかりました。

さあ今、『私』というストーリーができましたよ。
比較や、嫉妬という感情や、無価値観が基盤にある不足感ですね。

ここで、誰かを引っ張ってこなければいけない訳ですね。
その人がこの物語を私に引き起こした張本人な訳です。

質問者   はい。彼らが私をのけ者にしたからです。

ガンガジ  ほらほら、やっと物語がリアルになってきましたね。
首のこのあたりに感じ始めましたよ。

 「あの人たちが、この私を、のけものにしたんだわ!!!」
 

(質問者 会場 爆笑)

それから?

質問者   これ、皆さんの前では、やりにくいです。

(爆笑)

ええと、どこまでいったのだったかしら。

ガンガジ    物語を、解いている所です。
とても固く絡まっていたので、何が起きているのかもわからず、
あなたは、ただそれが起きているように感じていたのですが
それを、ほどいています。

そして、いま、 『私は被害者だ』というところまで解きました。


二つありますね。

まずは、この嫉妬という感情の被害者です。
そしてもうひとつ、この感情をわたしに与えた、だれかの被害者です。

そこから、私は逃げなければなりません。

質問者   そうです。


ガンガジ  それでは、このあと、
逃げるためには次のステップをどうしたらいいのかを知りたいのですが、教えてくださいね。

例えば、身体や、感情はどうなるのでしょうか?

どうやって、虚ろになればいいのでしょう?
どうやって、引きこもり、どうやって隠れたらいいのでしょう。

質問者    話すのを止めます。
それから、歯を固く噛み締めて、 

ガンガジ   (実際にそのようにしながら)

目はどうしたらよいですか?

質問者    石のように固く、
とても冷たく。

(笑い)

ガンガジ   こんなふうにですね。

(笑い)

それから身体はどうすればいいですか?
特別な姿勢というのはありますか?


質問者    そうですねえ。どうでしょうか。

ガンガジ   今、その状況を実際に感じてご覧なさい。

質問者    縮こまります。背中を丸めます。
被害者ですから、被害者の姿勢になります。

ガンガジ   そうですか。

(ガンガジ 笑いながら)

ねえ、
大変な労力ですよ。これはもう。。。

(会場爆笑)

 質問者    


(質問者も爆笑しながら)

はい。そうなんです。
すごく疲れて、大変なんです。

ガンガジ   まったく、労力がいりますねえ。

大変なエネルギーを使いますよ。これは。

質問者    はい。すごいエネルギーを使います。

ガンガジ   それではね、

さあ、
解決方法は何でしょうか?

実際にはもっとたくさんのステップがあるのだと思いますよ。
でも十分なステップをごらんになりましたね。

解決方法は何でしょうか?

質問者    ???

ガンガジ   たった今ご覧になったたくさんのステップの中の、どの段階であっても、このようにおっしゃることができるのです。

「もう止めよう」
「この小さく閉じてしまう力を、捨ててしまおう」と。

さあ、それでは、
まっすぐに座ってご覧なさい。
そして、目をしっかり開けてね。

それから、こんなふうにね、

 「こんにちは。

 私の気持ちは傷つきました。
私はそれをあなたのせいにしています。」

(笑い)

それとも、単に、

「傷つきました。」

 それともね、

こんなふうにもおっしゃることができますよ。
「愛しています。」とね。

 質問者    

(大きく微笑みながら)

ありがとうございます。

ガンガジ   ほらね。

そのとおりです。
このほうがずっと簡単なのがおわかりになりましたね。

質問者    はい、ほんとうに簡単です。

ガンガジ   そうです。

簡単な事実なのに、誰もがそのように認めるのが嫌なのです。

(会場笑い)

なぜかと申しますとね、
私たちは、じぶんで作り上げたこの力に、
それはたくさんの時間や労力を注ぎこいできたからです。
そしてそれを、特別で素晴らしいと思いこんできたからです。
それを捨ててしまうと、無防備になってしまうと、勝手に決め込んだのです。傷つくかもしれませんしね。

でもね、ご自分を防御しても、どっちみちやっぱり傷つくんです。

なんてひどい冗談だったのでしょう。

(会場笑い)

 もし防御がうまくいくのでしたら話は別かもしれませんよ。
ところが実際は、防御をするとますます傷が深くなるのです。

傷を、苦悩に変えてしまうからです。

おわかりでしょうか?

傷は傷でしかありません。

例えば、
嫉妬は、痛みを伴いますね。
嫉妬するべきじゃないとか、嫉妬してもよいだとか、色々なことが言えるかもしれませんが、

嫉妬はもうすでにそこにある訳でしょう。
嫉妬という、人間体験の一部ですね。

それなら、それを感じてみてご覧になってはいかがでしょう。


「私は嫉妬しているわ。傷ついていて、恐れでいっぱいだわ。」
という具合にです。

そして、いかがでしょうか?

「愛しているのに。
どうしよう。
黙りこくって殻にとじこもり、嫌いになろうか。」
とおっしゃるかわりに、

傷つき、愛する。

傷つきながら愛する、というのは、いかがでしょうか?

私は皆様に、傷つきながら愛することの方を、お勧めしますね。

傷つくことには美しさがあります。
傷つくことはまったく人間的な感情です。

動物も嫉妬するのかどうかはわかりません。
私たちは、否定的な感情は人間特有のものだと思いがちですが、
蟻を研究なさった方のお話ですと、
蟻にもそれぞれに個性があるのだそうです。
私たちにとって、蟻は蟻にしか見えませんが、
仕事をしたくないから隠れている蟻がいたり、

その蟻をわざわざ探しに行って仕事に連れ戻す蟻がいたりするのだそうです。

(会場爆笑)

もっともっと蟻について研究してみれば、コメディアンタイプの蟻だとか、悲劇タイプの蟻だとかもいるのかもしれませんね。

(会場爆笑)

まるで、神と同じですねえ。

私たちの感じ方や感情は、いってみれば、芝居の中の一部なのです。
この貴重な人生を、傷つくことを避けながら生きている結果が、苦しみです。

死んだ人生ですね。

(質問者に向かって微笑みながら)

あなたの人生が死んだ人生だと申し上げているのではありませんよ。この特別なシナリオ、つまり、自分を閉じてしまい、虚ろになるという一般的な『ストーリー』に関して申し上げているのです。

『傷ついている物語』というのは、『傷つくという体験』とはまったく異なります。


『傷つく体験』は、ストーリーによって生じてくるのかもしれませんが、直接的な体験です。
そこでは、愛を覆い隠す必要などありません。

無表情になる必要も、うちひしがれる必要もありません。

ただ単に、
愛し、傷つく、それだけです。

 

 

 

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