2010年11月の記事 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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死の恐怖

質問者    私の物語をお話しします。

癌という診断です。
私の物語の中にあります。
死の恐怖がここにあります。
いったいどうなってしまうのか。。。。。

助けてください!

ガンガジ   癌の診断をされたのは何ですか?

質問者    私の身体です。

ガンガジ   そのとおりですね。
身体はいずれは死にます。
癌で死ぬかどうかはわかりませんが、でも、いずれは死にます。
あなたが向き合わなければならないのは、その事実ですね。

本当のところ、
癌の診断は、あなたへのプレゼントなのです。
なぜかと申しますと、
ほとんどの方々が、この事実を無視して人生を過ごすのですから。

質問者    でも、、、、

ガンガジ   これは、神聖な現実です。
神から授かった現実です。
失敗ではありません。

質問者    昨晩、あなたが、幸運についてお話しなさったとき、
私は心の中でクスクスと笑いました。
と申しますのは、
このことに感謝を感じるまでに、かなりの長い時間がかかりましたから。

ガンガジ   それをうかがって、嬉しいわ。
素晴らしいですね。

質問者    本当に感謝を感じるんです。

ガンガジ   そうですね。
もっと先に進んで行けるように、あなたの後押しをしてくれるのです。
いままで抵抗していたものを押しのけてね。

質問者    はい。そのとおりです。

ガンガジ   幼稚な戦略で否定したり、
生半可な作戦で隠してしまうことはできないのです。

『えっ、そんな???
死ぬの???
私、本当に死ぬかもしれないわ』

それ以外の何ものでもないという、
死という現実です。

そして?

質問者    はい、そして、
死にたくないんです。
ここに残りたいのです。
ここが好きです。

ガンガジ   ここってどこでしょう?
あなたがおっしゃる、ここというのは?

質問者    私の人生を愛しているのです。
家族を愛しています。
夫がいて、彼を尊敬しています。

ガンガジ   そうね。
いずれ彼らも、みんな死ぬのですよ。

質問者    子どもたちもいるのです。
   
ガンガジ   そう。みんな死ぬのです。
誰もが皆、いずれは死ぬのです。

実際には、
毎晩眠りにつく時、彼らはみんな死にます。
そして、あなたも死にます。

いかがですか?
ぐっすりと眠るのは、お好きですか?

質問者    ええ。
まったくです。

(爆笑)

ぐっすり眠るのは大好きです。

ガンガジ   あなたの御主人もそこにはいらっしゃらないし、
お子様たちもそうですね。
あなたさえも、そこにはいらっしゃいませんよ。

(笑い)

ガンガジ   あなたが、あなただと思っている、
そのあなたは、そこにはいらっしゃらないわけです。
そうでしょう?

質問者    そうですね。

ガンガジ   そこにあるのはなんでしょう?
深い眠りの中にあるものは?

質問者   そうですね。
私にとっては、疑問に対する答えがそこにあります。  
たくさんの疑問への答えが、そこにあります。
質問を携えて眠りにつきます。そうすると、

ガンガジ   深い眠りの中で、質問はどうなるのですか?

質問者    え〜と。

ガンガジ   熟睡しているときのことをお尋ねしているのです。

質問者    。。。。。   

みんな消えてしまいます。

ガンガジ   そうですね。
答えもでしょう?

(笑い)

質問者    う〜〜ん。。。
そうです。

(笑い)


ガンガジ   ですから、

この体験、
肉体を持って生まれてくるという、意識的な具現化の体験、
また、それに伴って起きる、
誕生が始めにあるように、死は終わりである、という認識というのは、
素晴らしいのですが、
でも、
死は、始まりから終わりの間に、実際は、断続的に起きてもいるのです。
あなたが幸運ならばきっと経験しているであろう、熟睡もそうですし、
日中でさえ、
何の疑問も、何の答えも無く、
あなたも私も、それもあれも、何もない瞬間というのがありますね。
それも死です。
それから、皆が愛する恍 惚 感も死です。

(笑い)

その瞬間、何の緊張もそこには無く、
あなたも消え、ただその瞬間があります。
ただ、愛があり、平安がありますね。

深い睡眠は、平安の中の平安です。
平安の中での休息です。

墓石の中も、
平安の中の平安です。

ですから、
私たちの文化はとっても奇妙ですね。

(笑い)

いろいろな事に関してそうですが、死に関しては特にそうです。

先日、
死を迎えている方と、亡くなる直前に電話でお話をするという大変な幸運に恵まれました。

彼は、 病気との闘いに敗れたということを、
その日医者から宣告されました。
エイズでした。
勇敢に闘われましたし、
生きることを愛していらっしゃいました。
ご自分の人生を愛し、友人たちを愛し、
人生で経験したことを愛しておられましたが、
人生は終わりだ、というメッセージを受け取られました。
できることは何もかもやり、
そして、次の朝がやってくる前に彼は亡くなったのでした。

そして私は、彼が亡くなったあと、
彼の遺体とともに過ごすという幸運にも恵まれました。
それはまさに、平安と愛の放射でした。

皆様がそのような体験をされていたかどうかはわかりませんが、
その時、そこで、彼の灰色の亡骸とともに過ごされた方々の多くが、
何か、知ることのできない、理解を超えた、
『存在の歓び』というようなものがそこにあることを、
感じていらっしゃるように思いました。

もちろん私も、彼に亡くなってほしいと思っていた訳ではありません。
彼の姿が好きでした。

けれどもこのように同じような場で、 避けることのできない、肉体の死と向き合うということについて、彼に 何度もお話をいたしました。
それは、彼だけではなく、あなたの身体にも確実に訪れる死であり、他のすべての方々の身体にもおとずれる死です。

そして彼は、そのことを受け入れたのです。
彼は、死と向かい合わなければなりませんでした。

そして、そうなさったとき、
そこに、無限の祝福があるということを発見なさったのです。

それは、肉体を持って生まれてくるという祝福、つまり具現化の体験
よりも、もっと良いというわけでも、良くないというわけでもないのです。

そのことを、まだ、身体があるうちに体験することは、 素晴らしいチャンスなのです。
これがあなたに与えられたチャンスです。

質問者    ほんの少し、そのように感じたことがあります。

ガンガジ   そうでしょう。
そのようにお見受けします。
外に現れていますもの。

質問者     ほんの少しありますが、
でも、もっとわかりたいです。
もっと欲しいです。

ガンガジ   それでは、
どちらがもっと欲しいのでしょうか?

質問者  もっとよくわかりたいです。
そして、もっと生きたいです。
そういうことです。

ガンガジ   (笑いながら)

ええ。もちろん、もちろんそうですね。
理解できますよ。
自然なことですから。   

では、どうでしょう。
あなたは今この瞬間、
身体はいずれは死んでしまうという事実と進んで向き合うことはできますか?

この身体は、必ず死んでしまいます。
明日かもしれませんし、
10年後、50年後かもしれません。
それがいつなのかは、だれにもわかりませんね。

そのことに進んで向き合うということそのものが、心を開くのです。
後は、好きなだけ病気と闘えばよろしいのです。
ただ、そうなるとき、
あなたは、死と戦っていらっしゃる訳ではなくなります。
あなたは病気と闘っていらっしゃるのです。

おわかりでしょうか。

死はいつでもわたしたちと共にあります。
死は敵ではありません。
死は生です。
生は死です。
死と生は同じです。
誕生と生も同じです。
それらは別々ではありません。

誕生と死は別なものです。
なぜならそれらは、どちらも生の中に生じるからです。
誕生と死は同じあらわれの領域の中にあります。
それらは異なっています。

死がここにあるということに気づくことです。
今、会場の皆様がそうなさっているように、
診断がくだされるのを待つことなく、そのことと出会ってごらんなさい。

でももしも診断がそこにあるのでしたら、
診断を認めることは、死と向き合うための味方になります。
それは身体の味方ではなく、意識の味方です。

あなたがご自分の身体の面倒を見られるのは、まったくかまいません。
あなたの身体、あなたのご主人やお子様たちの身体、そしてこの惑星の身体の面倒を見ながら、死と向き合うのです。

これが、あなたへの力添えです。

質問者    ありがとうございます。

ガンガジ   なにか、ほかにも思い浮かんでくることはおありですか?

質問者    感謝の気持ちです。
ここに居ること、この瞬間に居ることに対して、
とても大きな感謝を感じます。

ガンガジ   かけがえのない瞬間ですね。

質問者    はい。

ガンガジ   かけがえのない瞬間、それがここにありますね。
そして、この瞬間は、過ぎ去って行きます。

でも、今ここにあって、過ぎ去ることのないもの、それは何でしょうか?
それは、この瞬間が過ぎ去っていく中で、出会うことのできるものです。
この瞬間にしがみつかずに、
そこにあるものが何なのかを、見きわめてごらんなさい。
そして、もしもそれに出会うならば、
それはあなたの人生への贈り物となります。
あなたの御主人や、お子様方、そしてあなた御自身への贈り物です。
あなたの御主人やお子様方やあなたを愛した方々、皆様への贈り物になります。

質問者    (胸に手をあてる。)

ガンガジ    そう。
まさに、こころからの敬礼ですね。

質問者    祝福されていると感じます。

ガンガジ   そうです。
あなたは、祝福されていらっしゃいます。

そして、
あなたが祝福されているということをあなた御自身が御存知だというこの祝福は、まったく理解を超えています。
これが恩寵です。
この部屋にいらっしゃるすべての方々が、祝福されています。
計り知れないほどです。
お気づきになっていらっしゃる方も、いらっしゃらない方も、おられることでしょう。
お気づきの方々には、この祝福は、祝福の中の祝福です。
お気づきでない方々はやがて気づかれることでしょう。
『あら、祝福されたんだわ』とお思いになった方には、
とてもよい知らせですね。

(笑い)

皆様がこのように集まってこられると発生する、最高の副産物です。

参加者    この感謝の気持が好きです。
この気持ちの中に居たいです。

ガンガジ   今、その中にいらっしゃらないのですか?

参加者    おります。

(笑い)

ガンガジ   そうでしょう。
私はこの感謝の中で、祝福されている、というふうにおっしゃってもよろしいのですよ。

(笑い)

もうこれから絶対に、感情がわき起こってこないというふうに申しあげているのではありませんよ。
明らかに、どのような感情にしても、
とっておける現実として、心の中に溜め込んでおいたものは、わきおこってくるでしょう。
それなら、
出会いましょう。
出会って、
出会って、
何度でも、出会ってごらんなさい。

参加者    喜びもあります。

ガンガジ   そう。
ものすごい喜びですね。
あなたは、喜びを放射していらっしゃるわ。

参加者

(胸に手をあてる)

ガンガジ   どうなさいましたか?

参加者    あなたが大好きです。愛しています。

(笑い)

ガンガジ   私もそうです。あなたが大好きです。愛していますよ。
大好きです。

参加者    ありがとうございます。

ガンガジ   

これです。

愛は、決して死ぬということはありません。
これが真理です。

後どれだけの時間が残っていようがいまいが、
診断がくだされていようがいまいが、
告げるべきことを告げるのを忘れないでください。
あなたの御主人やお子様たち、ご両親や御友人に、そして敵に、
告げなければならないことを告げるのです。
なぜなら、どんな身体にも、
いつだって急に死んでしまうということがあり得るからです。

(質問者に向き直り)

祝福ですね。

いま実際にここにあるのは、
防御に関する問題です。

防御しないことです。

身体は守り、保護すればよろしいでしょう。
そうすることに、
なんの問題もありません。

でも、もしも、あなたは誰であるのかということに関して混乱が起き、
防御を始めると、
あなたは、真実のあなたを防御し始めます。
そして、ある時、
あなた自身を閉ざしてしまっていたことに気づくでしょう。
誰にも見つからないように防御してしまうのです。

しっかり閉じて、縮こまった拳ですね。

それならば、
開きましょう。

パパジによく同じ質問が寄せられたものでした。それは、
『どのようにして、心を開いたらよいのか、
どのようにして、委ねたらよいのか』という質問です。

パパジは、
『ティシューを握りしめているようなものだよ』と答えました。
握りしめているには、いろいろな筋肉や、神経や、骨を使い、力が必要です。
でも、 握っている拳の力を抜くには、こんなふうにするだけです。

(力を抜いて、見せる。)

もちろん、固く拳を握りしめて動き回っているということに、
御自分自身で気づいておられない方々もいらっしゃいます。
でも、誰かに、
「ねえ、あなた、拳骨を固く握りしめているよ!」と、
指摘されたなら、
きっと御自分の手を見降ろして、
「あれあれ、これは驚いた。知らずに拳骨を握りしめていたぞ」と
お気づきになるかもしれませんね。

(笑い)

そして、ただ一つ、
それほど単純で、簡単なことができずにいる理由は、
簡単なはずがない
という、考えなのです。
『そんなに簡単にできるはずがないよ。』
『簡単なわけがないでしょう。だって、
長い間、こうやって拳を握りしめてきたんだから』、
というような、考えです

こうするだけでいいのです。

(握った手を開いてみせる)

握っているほうが、放すのよりもずっと難しいです。
 

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絶対的な強さとは


昨日、ある方がこのような質問をなさいました。

 

『私はこの絶望的な状況をきりぬけられるほど、自分が強いかどうかわかりません。』

その方は今、何か大変に厳しい状況の中にいらっしゃるとのことでした。

 

重要なことなのでお話しします。

と申しますのは、

私たちはだれでも、時に、このような感覚に襲われることがあるからです。

 

『今の状況を切り抜けることができるほど、私は強いのだろうか。』

そうおっしゃったその方は、とても強い女性です。

彼女の状況がどのようなことであり、彼女が切り抜けなければならないことがどういうことであるのか、それについて私は知りません。

 

でも今、ここにいらっしゃる皆様が、

幻想を手放したいと思われ、あらゆることから自由になるためにいらしているのでしたら、

幻想を手放す強さというのは、すべてをゆだねることの中にしかない、と申し上げましょう。

 

それがたとえどのような幻想であったとしてもです。

 

それが、あなた自身でコントロールできるように感じられる幻想であったとしても、または、あなたの周りの方々がとる行動、という幻想であったとしても同じです。

 

あなたがゆだねてご覧になったとき、強さはもともとあったことがおわかりになることでしょう。

 

もし、あなたが、

幻想から自由になるために、自分で何かをしなければならない、という幻想を抱いていらっしゃるのでしたら、

 

(会場笑い)

 

そこには、何かをしければならないという、『あなた』の努力が必要になりますね。

 

でも、そうではないのです。

 

ごく単純にゆだねるだけでいいのです。

心を開くだけです。

そうすると、もう、

強さがそこにあることがおわかりになるでしょう。

 

強さとは、それが私たちにあるのかどうか、などという、概念とは全く関係ありません。

なぜなら、そこでは、誰かが何かを行っているわけではないからです。

単に、開け放たれた空間がそこにあるというだけです。

だれかが何かをして、開け放つわけではありません。

 

最終的なものです。

途中の過程ではありません。

 

開放は、ゆだねることでやってきます。

きっと、皆さんは、そのような状態を経験なさったことがおありではないかと思います。

 

ただ、そのような経験をすると、人間の頭脳はとたんに

「もういちど、やってみよう」と考え始めます。

そして、パターンを作ったり、方法を考えだそうとするのですが、実際にはそのための手段はありません。

 

開くための方法はありません。

 

開くのをためらっていたり、開かなければならないと考えていたり、開こうと努力なさっているのかもしれませんが、

開くためには、あらゆる手段を投げ出すしかないのです。

 

開かれた状態を手に入れるのではありません。

ただ、開け放たれた状態でいる、のです。

 

ですから 仮にそのような表現をしたのですが、実際には、強さという表現も正しくはないわけです。

 

何もかもを失ってしまうわけですから、手放すには、強さが必要な感じがしますが、失うものは、どうせ偽物でしかありません。

 

それがどのようなレベルであるにしても、あなたには、ありとあらゆる幻想を手放すために必要な絶対的な強さがあるのです。

 

幻想は、『真実』ではありません。

体験していたときには重みがあったのかもしれませんが、実際には重みがありません。

 

『私に強さがあるかどうかわからない』と、

私を呼びとめられた方が今ここにおられるのでしたら、お礼を申し上げます。

 

そのような感情が再び現れたら、そこで立ち止まって、待ってご覧になってください。

 

普通はそのような感情が表れると、逃げたり、戦ったり、それを感じないようにしてしまいます。


でも、ただ、あけ開いてみてみましょう。

強さというものがどこにあるのかということを。

 

私たちが、誰かの幸せに対して、 たとえば、子供の幸せや親の病気に対して責任があると考えたり、じぶん自身や、世界の平和に対して責任があると考えるのは興味深いことですが、

私たちにある本当の責任とは、真実の人間としての開かれた状態でいることに対してです。

 

 

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