2011年04月の記事 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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静寂で在るとき、そこには何の苦悩も入り込む余地がありません


質問者    最終的な救いとは何かというあなたの問いかけがありましたが、

 

私は、救いや助けとは、救いが必要な人の面倒を見て、必要な何かを変えてあげることのようにずっと信じてきました。何かを正したり直したりすることのように思ってきました。

 

ガンガジ   あなたがおっしゃる、面倒を見るというのは、どのような意味ですか?

 

質問者    重荷を一緒に背負うという意味かもしれません。

 

ガンガジ   なるほど。

 

質問者    頭の中では、それは違うとわかっています。

でも実際にはわかっていません。

 

身体としての私はずっと以前から、いつも誰かの重荷を背負ってきました。

その延長線で職業も医者を選んだのだと思います。

 

あなたは、ただ、STOP とおっしゃる。

その言葉を聞き、止めた、瞬間というのが私の人生の中にもありました。

とても静かなので、聖なる瞬間と、私は呼んでいます。

先ほどお話しになった女性が、今この瞬間に注意を向けると、そこには何も問題がない、とおっしゃいましたが、私もそういう瞬間を経験したことがないわけではありません。

 

でもほとんどの場合、私はいつも何かを背負って生きています。

誰か他の人の荷物、そして私の荷物、という具合にもっともっと重くしてしまいます。

 

そうでなければ、全く無視して何も見ないようにするかのどちらかです。

 

ガンガジ   最終的にはどちらもうまくいかないとおっしゃっているわけですね?

 

質問者    その通りです。

 

背負いすぎて病気になりました。

 

ガンガジ   私たちはお互いに手を差し伸べ助け合います。

助け合う必要があります。

でもそれは相手の重荷を自分に取り込むことではありません。

 

誰かを気遣うということの意味を私たちは勘違いしています。

“手放せば軽くなる” ということを、私たち自身を使ってただ相手に見せてあげる代わりに、重荷をどんどん取り込んで自分のものとしてしまいます。

 

あなたがおっしゃることはよくわかります。

私も以前そのようなことがありました。

 

助けたいというのは、 私たちのとても美しい部分からやってきます。

お互いのつながりを感じ、なんとかしたいのです。

ですからそれが間違っているのではありません。

助けたいという一体感が私たちの中にあるのは感謝ですね。たぶんそのように作られているのでしょう。

 

けれども、ここで、一体、助けとは何だろうかと叡智を用いて調べてみることができます。

 

人々がパパジに、

「あなたはどのようにして助けるのか」と尋ねたとき、

パパジは、このようにおっしゃいました。

「まずは、無思考を生じさせる。

静寂でいる。」

 

静かにする、とは話をしないという意味ではありません。

目の前にいる人が必要かもしれないことに対して何の手段もとらないという意味ではありません。

 

静寂であるときは、なんの苦悩も入り込む余地はないのです。

 

たとえ一日の終わりに、あなたが誰かの苦しみを感じているとしても、

あなたはご自分の身体をいたわることができます。

あなたご自身をも含めて、救済することができます。

 

重荷を下ろし静寂を招き入れる。

あなたは元々静寂なのですからそのようなことができます。

 

人を助けたいという願望は素晴らしいです。

さきほど、止まりたいと、おっしゃいましたが、その意志をサポートしましょう。

 

静寂のなかに止まり、

あなたの中に、

“せねばならない” という思いがあるかどうかに気づいてください。

もしそれがあるなら、たとえご職業上のことだとしても、一歩さがってよくご覧なさい。

せねばならないというのは条件付けです。

社会の中には、せねばならないという、むち打ちがあります。

 

真の救済には、せねばならない がありません。

それはまったく自由にわき起こります。

 

患者を診るなという意味ではありません。

 

真の救いは静寂を通してやってきます。真実のあなたに気づくことでおこります。

 

私たちはお互いに受け取り、与え合います。

まず、静かにじっと動かないという意志を持ってご覧なさい。

 

 

 

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あらゆるものが消え去ってもなくならない真実とはなんでしょう


質問者     ここであなたと共にいることができることに心から感謝しています。

 

津波に襲われた人々の映像に私の心は大変痛みます。

私たちが執着しているものが、一瞬にして流されてしまうのを目の当たりにしました。

 

山のように積み上げられた堆積物の映像を見ながら、私はあなたに深く感謝せずにはいられませんでした。

私が私だと思っているものからも、その私が所有しているものからも、あなたのおかげで、私はもうずっと前に自由になっていたからです。

 

今世界のあちこちで、これまで私たちが執着してきたいろいろなものが失われつつあるように見えます。

 

執着物は一瞬にして失われてしまうのです。

 

ガンガジ    なんと素晴らしいご報告でしょう。

素晴らしい気づきですね。

 

質問者     

映像を見ながら言葉を失いました。

 

ガンガジ   

 

パパジが、人間に関するすべては一瞬にして消え去る、といいましたが、

消え去るものに、私たちは執着します。

 

身体、地位、財産。

皆、消え去るのです。

 

そして、そのことに意識的でいること。

失われるということの中にある贈り物に意識的であること。

そういうことが実際に可能なのです。

 

あなたがいまおっしゃった通り、

あらゆるものが消え去っても、なくならない“真実”。

それを証明するのです。

 

質問者    ええ。

これを語り合うのは、ゾクゾクする程、興奮します。

 

ガンガジ   そうです。

なぜならそれは、今、この瞬間にいきいきと、息づいているからです。

 

ありがとう。

このことをお話ししてくださり、心からあなたに感謝します。

 

質問者    

失った人々が、それ以上をうけとりますようにと、私の思いは彼らとともにあります。

 

失ったものの中で、それ以上を得ますようにと。。。

 

ガンガジ    そうですね。

 

すべてをなくしても、愛は失われるでしょうか?

 

それに気づくことは誰にでも可能なのです。

 

 

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失うという悲しみよりももっと深いところに


質問者   日本で起きた震災に大変心が痛みます。

惨状の映像に、言葉もありません。

 

多くを失ってしまった人々を思うと、

張り裂けるような胸の痛みを感じます。

たくさんの人々が未だに大切な人を探しています。

 

様々な感情が私の中にわき起こり、消えていきます。

 

けれども、

感情が揺れ、動揺のまっただなかにいようとも、

注意を、“今ここ” に向けると、

そこには常に変わらないものがあるのです。

 

ガンガジ   ええ。

 

そのとおりです。


質問者    静寂です。

 

それは、常に今ここにあり、どこかに消え去ることがありません。

 

失うという悲しみの中でも、

それよりももっと深いところに、決して変わらず在ります。

 

ガンガジ   まさにそのとおりです。

すばらしいです。

 

質問者    あなたが伝えてくださいました。

深い感謝でいっぱいです。

 

ガンガジ   こちらこそ、ありがとうございます。

 

質問者    思考や感情を追いかけるのをやめると、

“静寂” “愛” がもともとそこに在ったことがわかります。


今この瞬間に注意を向けると、そこには何の問題もありません。


最終的な救いです。

 

ガンガジ     素晴らしいご報告です。

 

そのとおりです。

あなたの言葉は私たち皆に大変深い静寂をもたらしています。

 

そして愛を受け取っていることへの感謝。

 

本当にありがとう。

 

惨状を目前にしながら、“静寂で在る” ことにより、

あなたは実際にここにいる私たちに救いをさしのべてくれています。

それは驚くほどの救いです。

私たちはこのようにお互いに与え、受け取り、サポートをし合っています。

静寂は、私たちに、全く何の努力もなく自然に伝わってきています。

話をしてくださりありがとうございます。

 

どのような状況の中にあろうとも、

私たちは静寂を見いだすことができます。

 

悲惨な出来事は、世界各地で常に起きています。

それは、個人の中に起きている場合もあります。

何万人、何百万人という人々に起きる場合もあります。

 

そこには共通性があります。

 

共通性とは、

 

『私』という個の、特有の形の中に、

失われる悲しみや痛みとしてあります。

 

けれども

悲しみのもっと奥に、決して失われることがない、

“いまここに在る意識” という救いとしてあります。


あなたが今おっしゃった通り、

静寂、や、愛、としてあります。

 

これが私がお話ししている最終的な救いです。

 

いますぐにできる物理的な救済というものがありますが、

私がお話ししているのは、

最も最終的な救済です。

 

生きている地球に変化が起こり、

その結果多くの人々が津波に流されました。

何の罪もない人々です。

 

私たちは皆、人生が残酷であることを知っています。

 

けれどもそのことと戦わずに、向き合うことができます。

選択があります。

 

私たちは、自分が全く無力であるということ、不完全であるということと向き合い、心を開くことができます。

 

そうなると、人生は変わることのない安らぎを与えるでしょう。

 

静寂は、どのような騒音にも妨げられることなく、

つねに、今ここに在ります。

 

 

 

 

 

 

               

 

    

 

 

 


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