私たちの本質は複雑でしょうか? シンプルでしょうか?
2012.07.16 Monday 20:57
最近、これまでにあまりお会いすることのなかったタイプの方々と対話をする機会が増えました。
ミュンヘンでは、社会的に大成功をおさめている女性たちの会議に呼ばれましたが、
以前は、彼女達のようなタイプが、私の話に興味を持つとは想像すらしていませんでした。
ベルギーや、アムステルダムでもそうでした。
どれだけ多くの力を身につけても、力では決して満たされない何かがあると、
気づき始めている方々が、世界中に増えています。
いろいろなところで、多くの方の準備ができているのです。
さて、この方々から私に寄せられるご質問も、
長い間、探求を重ねてきた、ここにおられる皆様のそれとまったく同じです。
私が師から受け継いだ招待状は、大変にシンプルです。
” 内側での会話を止めよ。
そして、会話を止めたとき、ここに存在しているのが一体何であるのかを見いだし、
それで十分かどうか、
ただそれだけで、充足かどうかを調べなさい。”
それだけです。
たったこれだけの教えであるのに、
人生のすべてを捧げられる程、奥深く調べることが可能です。
しかしながら、
私が皆様から受け取る質問というのは、
「一体どうすれば、”止める” ことができるのでしょうか?」
また、ある時皆様は表現を変えてこのようにおっしゃいます。
「ええ。あなたの前でならできることもありますが、一人になると無理です。
「家ではできません。」
「職場では無理です」
「子供がそばで泣きわめいているときは不可能です」
「状況次第では難しいです。」
皆同じですね。
そして、私の返事は、表現は異なっているかもしれませんが、実際には常に同じです。
『あなたに覚悟ができているかどうか。』
と、私は申し上げています。
ご自分が何を欲しているのかを問いかけてごらんなさい。
問いかければ、覚悟ができているかどうかがわかるはずです。
もしあなたが、困難を感じておられるのならば、
『自分は何を本当には欲しているのだろうか』と、問いかけてみてください。
なぜなら、
あなたが本当に欲しているのが、
議論だとか、解明だとかというように、
頭で理解してなんらかの答えを絞り出すことであるのならば、
考えるのを止めるのはまったく理にかなっていないからです。
考えるのを止めたら、当然、答えを解き明かすことはできませんね。
でももし、あなたが真に欲しているのが、平安や、静寂や、真理そのものであるのなら、ただ一瞬、考えるのを止めてください。
解明するのを止め、理解しようという目的で何かをするのも止め、解き明かすのも止め、そして、もう既に存在しているのは何だろうかと、ただ意識を向けてご覧なさい。
考えることに害があると、申しているのではありません。
思考することで人類は多大な発展を遂げました。
思考には重要な役割があります。
けれども、私たちが、思考に頼りすぎていることで、
不必要な苦しみが生み出されているということを、私は指摘しているのです。
平安や、真実は、考えるのを止めれば即座に今この瞬間に見いだされます。
「でも、次の瞬間はどうなるのでしょうか?」
このような質問が浮かんだとしたら、
これも『次の瞬間にどうなるか』を解明したいという思考です。
この後どうなるのかを理解したい、答えを考え出したい、
答えを知りたいわけです。
答えを解明するのを、進んで止めれば、
答えは常にここに在ります。
シンプルです。
今夜、私は皆様に問います。
何がシンプルで、何が複雑なのかと。
”真理” は、複雑でしょうか?
シンプルでしょうか?
私たちの物語の現れはシンプルなこともあれば複雑なこともありますが、
私たちの本質はどうなのでしょう?
私たちの本質、
私たちの源は、複雑でしょうか?
シンプルでしょうか?
私の発見によると、
私たちの本質はシンプルです。
真実の私はシンプルです。非常に深遠ですが、シンプルです。
いかがでしょうか。
皆様も、ご自分で見いだしてご覧なさい。