2014年02月の記事 | ガンガジとの対話
ガンガジが世界各地で様々な人々と行っている対話をご紹介します
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選択するかどうかを決めるのは あなたです

私たちは様々なやり方で苦しみます。

タイプの異なる苦しみがいろいろありますが、
私たちが体験している苦しみの中心にある思考を見てみると、

過去がどうあるべきであったか、
今がどんなふうであるべきか、
将来はどんなふうになるべきか、
というように、”であるべき” があります。

それが悪いという訳ではありません。
生存を維持していく為の、単なる脳の働きです。

ところが私たちは、このような脳のコメントを
あたかもそれが現実であると捉えます。

毎日の生活に痛みが伴うのは当然ですが、
痛みは苦しみである、と判断し、

痛みを感じるべきではない。
幸せを感じるべきだ。

私はもっとちゃんと扱われるべきだ。
明日は幸せでないかもしれない。
明日もまだ痛みがあるかもしれない。
というように。

そしてこれらすべては、あなたの ”解釈” です。

解釈にも目的があるでしょう。
医者に行くべきだと解釈すれば、あなたは医者へ行くでしょうし、
保護されるべきだと解釈すれば、保護を求めるでしょう。
食べ物が必要だと解釈すれば、食べ物を求めるでしょう。

ところが私たちは全く均衡を失っていて、
どれだけ多くの医者にかかろうが、
どれほど多くの食べ物があろうが、
十分に保護されていようが、
コメントに振り回され走り続けています。

ひょっとすると、素晴らしい祝福や、完璧さを体験する瞬間があるかもしれないのに、そのような瞬間を

「それはそうだけどねえ」
「ほ〜らやっぱりね」
「どうせ続かないんだから」
「こんな幸運はきっと、いつか終わるんだ。」

と言いながら過ごします。

確かにそうでしょう。
いいことは続かないでしょう。

やっぱり、どうせ、とあなたがつぶやかなくても、
どうせ続かないのです。(会場笑い)

幸福や至福、
祝福や、完璧さや、愛というような ”体験” は、
変化し、
次の体験へと移り変わっていきます。

そして、
あなたはこう言うのです。

「ほらね、所詮これが現実なんだ」
「わかってるよ」
「元にもどっただけだ」 
「きっとやりかたが間違っていたんだ」
「何故自分だけこんなことが起きるんだろう」
「どうしたら直せるんだろう」と。。。

ある種の文化の一部やスピリチャルな教えの中で、
私たちは、苦しみのない可能性について耳にしたことがあります。
それを、私たちは、
痛みを感じない可能性というふうに、解釈します。

皆様に申し上げますが、
これは大変大きな間違いです。

私たちが、感じる身体を持っている以上、
当然痛みの体験があります。

痛みそのものは敵ではありません。

敵は何かというと、
私たちが、痛みを問題化し、
生を破壊するのにそれを利用していることです。

痛みがあろうが、
苦しみがあろうが、
望むような現実が、実現しようがしまいがかかわりなく、
”本質的な解放” が存在しているのに、
それに注目をするかわりに、
私たちが、痛みを苦しみとして問題視していることが敵なのです。
 
私たちは幼い頃、教会等で、
天国だとか、それに似た考えを学びました。
そして痛みの無い世界を想像しました。
そのような想像こそが、私たちを苦しみに追い込んでいます。

そして痛みを体験するたびに、

たとえばそれが、
つま先をぶつけたとか、
誰かがあなたの方を見ていない、というような、
ささいな痛みであったとしても、
ちょっとした否定的なエネルギーや不注意だとは思わずに、
重大問題として取り扱います。

私たちのマインドにとって、”自分” は非常に重要です。
それは幼少の頃にはじまり、やがて雪玉が転がるようにどんどん大きくなり、
11歳、12歳頃には、もう既に大騒ぎをするようになるのです。

そしてこれを意識的に見てみようとしない限り、
私たちはそのまま人生を終えます。
苦しみの人生と共に死んでいきます。

確かに時々、美や完璧さや、愛や、すばらしい体験があったのかもしれませんが、生は、苦しみを中心に回転しているのです。

ですから、
そんなふうに人生を過ごしてしまわないように、
私は皆様をお誘いしたいのです。

貴重なあなたの人生、
あなたという特別でユニークな形は、非常に短く、
いずれ必ず期限切れになってしまいます。
あなたという形はやがて終わります。

ある意味でそれは、全くひどい話ですが、
異なった見地から言うならば、素晴らしいのです。

なぜなら、それは私たちに、
『無駄にする時間はないよ!』と、知らせてくれているからです。

ああいうことが起きるべきだった、こういうことが起きるべきだったと、
べきだ、べきでない、と唱えながら過ごしているのは、
ユニークな今この瞬間を、そして分子や原子や遺伝子の表現というような、ユニークな形状を無駄にしていることになります。

あっ と気づいたときには終わりなのです。

パパジに出会ったとき、
私は様々なメソッドを試し、自分の苦しみを終わらせようとしていました。
カリフォルニアの素敵な暮らしには、
愛する人がいて、
満足感やチャレンジのある、やりがいのある仕事もしていました。
しかし私は、心の内側の自分でも気づかないような深いところに、
苦悩があるのを認識していました。

何も理由はありませんでした。

皆さんも、世界中の人々とご自分を比べてごらんになれば、
苦悩する理由などないと、おわかりでしょう。

でも、理由はいらないのです。
私たちには、苦悩する才能があるのです。
苦悩の理由を、何処からでも見つけられる力ですね。(笑い)

ひょっとすると、
「もう十分苦しんでいるから、神様どうぞ私には悪いことを起こさないでください。」
というような、お札のようなものかもしれません。

私は、
「誰かが現れて私を悟らせ、痛みから解放してくれないか」と、
自分が思っていることに気づいていました。
そうすればあらゆる痛み、
動物としての痛みや、パワーを欲しがる人類としての痛みから解放されると思っていました。

そのような折に、パパジに出会いました。
そして
「君の苦悩を、あれこれ話し続けるのを止めなさい」と言われました。
出会って間もなくのことでしたから、
彼に、それほどたくさんの私の苦悩の話をしたわけではありませんでした。

ですからパパジが、
私が自分の内側で苦悩をつぶやいているのも、止めるように、
と言っているのは、明確でした。

会場から起きた一声    ああ、なるほどね!      

ガンガジ      (思わず笑いながら)

そうなのよ。そう!

おわかりですね。
あの会話です。
あなたが内側で、一人だけでやっている会話です。(笑い)
秘密の会話ですね。

(会場笑い)

そして私は、自分の苦悩をある種の台座の上に鎮座させ、悟りの推進力にしていたことに気づきました。
ぎょっとしました。
自分の苦悩故に、真の幸福を探していたのですから。

つまり私は、
”意識” そのもの、
自由を発見したいという自然な欲求、を信頼せずに、
苦悩という推進力を崇拝していたのです。

自分でもまったく気づかない、錯綜したシナリオを描いていました。

私の中では延々とコメントが続いていました。それはあたかも神が語っているようでした。
神は、私などとるに足りない者だと言っているのでした。

たまに気が大きくなり、自分が神に選ばれた存在だと思えることもありました。
そのような瞬間は、自分が重要だと思え、とても特別でよい気分でした。

そして、私が考えたのは、
誰かに悟らせてもらえたなら、
常にずっと、気分の良い特別な瞬間のままでいられるということでした。

今私は、パパジに言われた言葉を皆様にそっくりそのままお伝えします。

「そのような考えは、どちらをも手放しなさい。」

真の自由、真の解放は、
苦悩があろうがなかろうが、
関係がありません。

痛みがあろうがなかろうが、
全くかかわりありません。

”真” の、というのはそういう意味です。
どのような状況にも条件づけられないという意味です。

そして、真の解放は、もう既にいまここに在ります。
あなたの生の核心に在ります。

ところが、

『いつの日か ”それ” が現れて、自分が気に入らないすべてを払拭してくれるだろう』と、
時間とエネルギーと大変に貴重なあなたの注意を、そのような希望に向けて過ごしておられるなら、
あなたは、あなたの生を捨てています。

実際は大変に簡単なのです。

そうしよう! という意志さえ必要ありません。

でも、簡単ではあっても、偽りは通用しません。
嘘も、ふりも、通用しません。

必要なのは、あなたがあなた自身に向かって、どのようなことを語っているのかを発見する、本物の意志です。

あなたに関して、また、他の誰かに関して、
いま私の話をきいている皆様の場合は、私(ガンガジ)に対しても、
あなたがあなたの中でどのようなコメントをしているかを、たった今発見してください。

そして、止めるのです
心の内外で会話をするのを止めるのです。
会話に触れずに立ち去るのです。
一秒もかかりません。
一秒もかかりませんが、瞬間的にあなたの人生は変わります。

その瞬間、
選択するかどうかを決めるのはあなただと、気づくでしょう。
気づくまでは、選択することすらできません。
何も気づかず自動的に生きています。

私は、
あなたが気づき、解放を選べるように援助する為にここにいます。

誰かから与えてもらう解放ではありません。
あなたがこれまで感じてきた痛みや、
今感じているかもしれない痛みと対極にある解放でもありません。

真の解放、真の自由です。

あなたの身体がどのような状況にあろうとも、
あなたにどのようなことが起きていようが、
愛する人との関係や、健康、病気、世の中の状況がどうあろうとも、
たとえあなたが、刑務所の中にいようが、
病院のベッドにくくりつけられ寝たきりであろうが、

あなたがどうであろうと関わり無く、
今この瞬間に、
何も変えずに、
あるがままのあなたでいながらにして、
本来の自分自身に気づく能力が、あなたの中にあります。

宗教には危険が存在します。
私たちの気持ちを和らげ、真理を示唆しますが、概念になると危険です。
マインドが罠にはまります。
ですから私が話していることがなんであれ、宗教ではないと気づいてください。
つまり私は教義をお話ししているのではありません。

マインドがあるとか、無だとか、
自分があるとか、無我だとか、
そのようなことを話しているのでもありません。
もっと、ずっと見近です。

私が使用している言葉は、それがどのような表現であれ、十分ではありません。私たちには言葉を捕らえて、肯定するか否定するかを決める傾向がありますが、そうではなく、どうかご自分で調べてごらんになってください。

私がこれまで皆様と行ってきた対話は、それがどのようなものであれ、
示唆している先はみな同じです。














 









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